こだま会講演日記    第七十回   坂本通博 筆記

泰岳貴尊講義   円海大師講義


迷信と正信、これはつまり影と日向。
慈音、慈声はむつかしい事を教えて頂いて居る。この中で皆に教へてよいと教主の許された事を話す。皆はあまり理、道理ばかり考へて居る。道理でない事を捨てる、之は当たり前の普通の事。ところが人間はらちの悪いもので之は道理だから正信、道理に合はぬから迷信と言ふ区別をたてて居る。慈音がこれだけ身体が弱り役に立たなくなった。之は神の罰にあらず、又教主が苦しめたのでもない。又慈音の罪にもあらず。之は誰の罪か、誰の罪でもない法がしたのである。

宇宙の法則と言ふものがある。之はまげられぬ。自然の法則を誤ったからこんなになった。慈声も同じ。両人の修養修行の仕方が誤って居るからだ。道理々々と考へて道理一方を追ひ、道理ばかりを道理と言って取り入れ、道理でないと言って捨てる。之は誤り。
悪い事ではないから罪はないが、之等は,前面的の修養修行をして居たから、後ろを忘れて居るからである。伏見人形の如く表面的である。
学者は全面的な修行、之は一方的だから偏頗な頑な妙なものになり、末路は肉体迄犠牲にして死ぬ。之を名誉と心得て居る。
道理だから道理ばかりを追ふて前進する、之全面的信仰と言ふ。
朝起きて洗顔の後火をつけよと言ふのは、前面の信仰と背後の信仰の両方にまたがり之を一つにして教へたもの。仏教で言へば大乗と一緒にしたるなり。
朝、顔を洗わずとも火をつけたらよいと言ふのは前面信仰。心の持ち方を正しくして物をするは、背後の信仰。一方が欠けるから間違う。道理丈では世はなりたたず。
世の中は雑音が多すぎる。迷信ありとも捨つる事はいらぬ。
道理は雑音の中から抜き出した正音に過ぎない。その清音ばかりを信じて雑音を空しくする、之は片信仰。迷信で悪い宗教に入る等は、雑音の中から正音でなく悪い音を引き出したもの。之も片信仰。人の信仰して居るものをさまたげる事、之は人の利益をたたき落とすなり。人は如何なる迷信にもあれ、その信仰により何かの利を得て居るものなればなり。
子供に神を拝ますも、雑音と清音とが混じって居る教へである。
蓮は泥(背後、迷信)と言ふものを吸ひあげて蓮の花(正心となって居る)を咲く。
二人の様に道理丈を追って居ると、背後のものが働かないから肉体が弱ってくる。悪いものの中からよいものを取り出して我身につける事。心にも肉体にも立派な着物を着せれば前面も背後も整ふのである。
子供は無理にためず徐々にためて行く。
十五歳以後、組織期になったら理屈ばかり言って受けつける力が薄くなる。すべての事にあたる時、朝の洗顔の如くして当たる事に心がけて行く様に躾けて行く。

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