こだま会講演日記    第五十八回   坂本通博 筆記

泰岳大師講義


人は物になれてしまふと油断が出来て、改まった気分がとれて行き、それが習慣になってしまふ。そうしたらもう之まで出来ていた事も出来なくなる。
気分を改める五節句はあってもよい(円海の言ふ様に)それは燈明の油の切れかかったのに油をさすのと同じ。朝起きて神様を拝む。之は自分の心を改めるなり。顔を洗ふも心持を変へる。香をたいたり燈明を上るとかして神を拝む。そうすると自分の心を拝むのだから心が落ち着いて気分が変はる。夜も拝んで寝ると又よい夢に入る。
私は拝まされて拝んで居た。自分の心で心で拝んで居たわけではない。私はしあわせだった。私はマンマンさんが何だか知らなかったが唯そう習慣づけられて居た、之がなまける事も出来ず、いつも拝まされて居た。馬鹿アホーと言はれてもそうかなあと思った丈で何も感じなかった。神の姿を見たわけでもなく唯そうさせられた。
一つの足は天国へ、片足を地獄へ差し込んで二人前の事をして居ては二つにさけてしまう。
日々の事に追はれて修行が出来ないと言ふはそれ。
日々の生活が信仰でなくてはならぬ。日々の生活があればこそ信心をするなり。それでないと二つになる(二又)。顔を洗ふも食事をするも仕事をさせて頂くも信心。すべては信心でやる事。あやまち、怪我したら私は信心を誤って居たと考へる事。神と一緒である事とは別問題。一秒間も神は休みなく見守って居る。然し怪我したりだまされたりする時は、助けたりおこしたりしてはくれない。こんな時゜助けてくれるは悪魔。神様は一寸した肉体位を考へて居ない。その大事なものは何かと考へながら毎日を生活して居ると神が分かってくる。
何事をするにも神からさせられて居ると考へる事。
生活が信心。つとめは神の命。これで忠実につとめないから神は報酬をくれない。


円海大師のことば



十月と十一月の間を音の壱越と定めた。それが〇、一なにがしずつ変って来て、壱越を壱月にもって来なければ合はなくなった。
之を逆にもどさねばならぬ。之が閏年だから今の時計は〇時と言って居る。
何分何秒のはんぱあり。之あるがために地球は亡びる。
不動の配置は滅せず。不変化自然(大自然の法則)
動の配置は滅す。変化自然。


不変化自然に入って行かねば信仰にならぬ。

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