未知日記講話集   こだま会講演日記    第五十参回   坂本通博 筆記

五月十九日


人間には自惚れのない人は居ない
自我心、自尊心とか、是は非常に尊いもので是を捨てては世渡り出来ない。是はあってよい。人にはたましひあり(他の動物と違って)。
内外観ともに働く、自由に働く魂あり。
天上天下唯我独尊が人間誰にでもそなはる。それを自然が授け居るに拘わらず是を知らず。
これの枝葉が高慢、自慢、自尊心、我情、我見等になる。この枝葉からもとに戻ると
天上天下唯我独尊になる。
頑なな心があるのでよい。故に悪人はない。
悪の畑に植えてあるから悪になる。これを善畑に植え替えると善になる。
焼きなおさないでこれを善い畑に植えなおす。
一遍上人の話(親の生まれ変わりだった馬の馬子をしていた人)
南無阿弥陀仏丈より知らない人。
大悪変じて大善の例。
頑なな心をひるがえすなり。
頑なな心をよい畑に植えなほす。
考へる=今までの感じをすっかり変へる。思ひを変へる。
悪い思ひ丈が出るのは悪い畑に植えてあるから。
是を引き抜いて善い畑に植えなほす。
是を懴悔すると宗教者は言ふ。
焼き直しては死んでしまふ。焼かないでなほす。
あまり根が伸びて硬くなっては仲々ぬきにくい。故に余程の努力がいる。
子供の時に植え替えること。
悪い心になって居るから是を植えなおそうと思ったら、徐々に
(天上天下唯我独尊)を枯らさないように引き抜いて善い地に植えなほす、是を
自分から引き抜いて自分で植え変へるは自力、
自分が気が付かずに居ることを人に聞いて手本によってなほして行くは他力。


良心がたましひであるから良心を伸ばさねばならぬ。これをおさえつけるから
良心が潜在するようになる。良心を引きのばすこと。
良心と自分(肉体)とを一体化すること。是を植え変へると言ふ。
慈音師はすべての宗教で迷ひに迷った上行き詰まってしまって是を捨ててしまった。
そしてすてばちになったが、奥の方に何とかなりそうだと言ふ心が捨て切れるものでなく
残っていた。それを拾い上げてくれたのが前のミキョウ師である。


考へても考へてもわからぬ事は、これにぶつかってはじめて覚りが出来る。
是は空の方へ、不確定の方へ

不思慮底を思慮せよと言ふ如く。確定信仰からは定まって居るのだから信仰してもしなくてもよい。是は異論の余地なし。無言詞しか本当の答をする事が出来ない。空には限度なし、信仰は空ならざるべからず。但し、虚。そらだのみではいけない。


泰岳師来場


まんまんさまを拝みなさい(泰岳師の無言詞)      以上
神、仏、まんまんさん等々すべて人間以上のものに対する符号。 有言詞
泰岳は無言詞から有言詞を作ったのである。(まんまんさん)


注意
まちがへた拝みをしない様に。二心の拝みはいけない。
一方に仕事をしながら拝む。是は二心にあらず。
仕事の傍ら、一方で拝むは二心にあらず。
仕事をしているのは拝み。仕事から心を抜かない様に。
ご飯を炊きながら拝む。然しご飯炊きに対する注意を怠り、ご飯を焦す様では拝みにあらず。何々してください。助け給へ等は拝みにあらず。是は頼まずとも神は守るなり。
勤めから心を離さず拝むべし。
仕事をして居る間は仕事が拝み。是を間違へない様にするのが拝み。
常住坐臥すべては拝み。唯その仕事の中に神を忘れぬ様にする。
是を内外一体の拝みと言ふ。
是が修行ーこれにより頑なな心も植え変へられる。
たましひにすべてをまかす。たましひに心をまかせる。


何事も嬉しがってやる様になる事。是転換したるなり。
泰岳師はにこにこしながら喜んで修行して居られたように。

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