未知日記講話集   こだま会講演日記    第四十八回   坂本通博 筆記

四月二十八日


(この日より毎週土曜日に講義がある)


嫁取り婿取りは宗教心のある家庭からする事。
人は皆それぞれに欠点あり。それを棚上げにして嫁、婿をそしる。之等は宗教心がないからである。
その者の短所を隠して長所を褒めてやる(伸ばしてやる)様にすれば自然になついて来る。
道を歩いて見ても雑草はよく繁るが、よいものは繁らないと同じで、欠点は多い。
未来の事を考へてやるなら、その息子の長所短所を考へて適当な娘を考へる。
未来の為に用意してもその計画通りになる事はない。
相対の世界、地球に住居して居る間は相手がいる故に夫婦が必要。この三満一欠の世界と言ふ。故に一方には出入りする口がある。
甲乙の相対する理論が成立する。
この様なわけだから子供の事もあまり将来の事にとらはれるとよくない。
動物性のこだわりを早く明らめられる人を、悟った人と言ふ。


坊主は出家にあらず。坊主は比丘と言い、女の坊主は比丘尼。
在家の信者は優婆塞、優婆夷(女)と言ふ。動物性と言ふ家の中に住居して居たものが、その住居を出て動物性をはなれたるを出家と言ふ。
動物性を抜けて人間性になったのを、出家、得度をしたと言ふ。
動物性の家の中に住居するを在家と言ふ。
人は天界に
座って居る。悟ればそこが天界。
からりと夜が明けた様になる。之を光明の世界。
嫁誹り婿謗りしている様な暗い暮しから抜け出す。之を洗魂と言ふ。
物に執着してそこへへばりついて居る事を捨ててしまひ、すべてを幸福に喜びに変へる様にする事。肉体苦しむ時、こんな程度で許して頂いて有難いと思へばよい。
すべての悲しみ苦しみを喜びに変へる(思ひ様で変へる。)之を魂の養分と言ふ。
之は道理にして無理にあらず。
凡夫だからこそこの修行をするなり。


一人来て一人帰るも吾なるに 道教へんと言ふぞおかしき 一休
蜷川新左エ門の臨終に一休が引導を渡さんととして左の様に歌ったので、
「一人来て一人帰るも迷ひかな 来らず去らぬ道を教へん」
之不動知を授けんとの句なり。


人の話を聞いてなるほどと聞く人は少ない。之は反射力の為、又この反射力が修行の力となる。動物性を抜け様として反射力を除こうとしてはいけない。
之を応用して修養修行する。
こうしようか、いや駄目だ、それではこれは、それにはこのよくない事がある、
と考へ考へて、結局これがいいのだと最後の決定が出来る。即ち反射力の応用。
すべての苦しみを喜びに変へるも反射力の力。
人間に悪人なし、唯行ひが悪い。その行ひが腑に落ちないのである。だがその人にはそれなりの理由があるものである。
相互の思ひ遣りが足りないから不和となる。
反射力、反抗心。
自然にいつの事だかわからない様に心が洗はれて是を見出す様になる方法で導いている。
何か方法があるだろうと考へるはよくない。

之を錯覚と呼ぶ。天上天下唯我独尊と言はれる我魂をもっと信仰すること。
自分で持って居る魂を自分の心から拝むこと。

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