未知日記講話集   こだま会講演日記    第四十一回   坂本通博 筆記

十月二十八日  その二


イエスも釈迦も神を知らず。両者共肉体を持って居た。肉体を持って居て神を知るはずはなかった。肉体を捨ててはじめて神なる親に面会した。然し肉体有る間に神の世界は知って居た。
家康は日に十万べんの念仏したと言ふ。之は不可能。
一日寝ずにしても九万六千しか言えぬそうだ。
これは常住坐臥神を忘れない事を言ふ、即ち充満の念仏である。この信仰があれば必ず救われる。信不信に拘わらず神は見放していない。
即ち皆救われて居るが唯その人の程度に応じて処理する丈。
信じると言ふのは神の里に帰る。自分の里へ帰る事を言ふ。順視、逆視即ちこれなり。
自他の区別をするのは中心をはなれているから。
他人は他人、自分は自分と見るは順視。自分が他人で他人が自分と見る、之は逆視。
花を見て美しいなと思ふ、之は順視。又他に人あり、同じに美しいなあ、ほしいなあと思ふ、ここに順視。逆視あり。自分だと思ふことが他人であり、他人も同じに見る。
他人であると思って居る事は自分だったり・・・・・。
自分が中心になると引力は失はれる。
他人が一如であると集まって来る。
(光明論の中にあり、数字遊び、おしゃべり鳥の例もあり)
すべては一だと言ふこと。
他人と言ふものはない。
人間中心にしてしまへば、中心に寄ってしまへば皆一つ。個々別々のものがなくなって一つのものに結束したものが人間と言ふ事になる。「魂から霊を知るためのみちびきとしての話」今日の話はこのまま覚えること、難しく考へる要はない。

木も草も虫もすべて兄弟、皆関係のないものあらず。
皆一つのつながり。霊なる中心によってつながる。
自他の区別あるは中心を忘れたるなり。
大人の世界も子供の世界も帰するところはままごと。何も変わったことはない。
こんかものを早く見限って早く神様とままごとしたら如何。
食事のまづいはまづくてよいが、之にきずをつけてはいけない。ごちそうさまは宇相でもよいが習慣性として霊を見つけることになる。
即ち段々本当に有難いと感じる様になる。即ち宇相からでたまこと。

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