未知日記講話集   こだま会講演日記    第九回   衛藤欣情

 「若し慈音が宗教家なりせば、巧みに彼等の肉体に対して樂みを与へ其に依て心を魂にむくる方法を教ゆるならん。されど慈音は宗教者としてたち居るにあらず。故に其教へをなさざるなり。
 円海は此事を知るに依て易学の方面より彼等を導かんとなし居りしに、彼等は却て其を曲解して訳もなき他方面に心をはせ居るため、却てその易学のために禍を招かんことを慮って、円海は中途より是を停止するに至りたり。正しき事を教へて却て迷はする結果とならば労して効なきを悟りたるなり。
 円海も宗教者にあらず。我等の意中を汲みて唯すべての衆生を導かんとする老婆心の現はれなり。若し円海が宗教者として汝等に見ゆるならば、彼は思ふがままの姿を現はして汝等の目前に到らん。斯る事は行者にとりていと易きことなり。若し汝等に円海が姿を現はして説教するならば、汝等は平伏して随喜の涙を流して彼の説を一々真と思ひて従ふならん。円海が姿を現はさざるは真を曲げて虚偽を示めすを恥ぢらふに依てなり」との理由を他の貴尊が補足されて居るのである。〈未知日記参照)
 円海大師が易学の講義を中止されたことについては、理由の説明は与へられなかった。誰も何とも抗議しなかった。だが会員は一人去り二人去りして大半が遠ざかって行った。
当時銀座の大通りにたむろするのは外国兵であった。彼方此方で罪なくして日本人の殺された噂は私達の耳に入ってきて居た。易占の技を身につけたいと云ふ会員の願ひも誤解として退くることは出来なかったが、それは余りに短見であったと私は考えた。
 此事について老師は一言も口に出されなかった。其故私自身も亦沈黙を守ったのである。
 昭和二十八年十二月十八日、老師は地上での使命を完遂して天に召された。会員は再び一人去り或者は国外に、或者は死して、こだま会はいつとなく有名無実の姿と化したのであった。此日誌の著者坂本通博は自らの修行のために円海大師泰岳大師の講話を筆記して居たのであるが、本人が黙して語らなかったため私は今日迄しらなかったのである。然しこだま会が再び熱心な会員を得て「未知日記」の教への研究に力めて居る今日、此「こだま会講演日記」も亦私すべきでないとの判断に達して公開の運びとなったものである。
          昭和四十六年六月
                  衛藤欣情

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