未知日記講話集   こだま会講演日記    第八回   衛藤欣情

 たとえ老師が貴尊方の返答を得て告げ知らせたとしても、受け止める人々の力不足智慧の多少によって運用をあやまり、早合点早飲み込みから間違いの生ずることは避け難かったのである。然しその責任は老師以外のところには行かないのだ。「先生がああ仰ったから」と云った。人と云うものの如何に自己反省の力が弱いかを、又案外意識のぼけを私は見せつけられて呆れることが多かった。又一例を云えば縁談の如き最初から老師には否と分かって居ても彼は決して縁がないとは云はれなかった。否と言明して中止させては未練が残るから、断られたら其で諦めるからと云ふのだった。然して結果が否である時、その人は云ったものである。「先生がああ仰ったから、うまくまとまるのかと思った」と。
 其人が其前に座れば其だけで其人の三世(過去現在未来)の姿を見ぬいて居る霊智の人と,障子一枚へだてただけで何も見えない凡智の人との隔たり世人の想像の及ぶ処ではなかった。然して常時此間隔を見て暮す私は、何とかして自分も老師の力の何分の一かでも獲得することを意図し努力せねばうそだと云気が強くしたのである。自分は永久に永遠に自分であり生きられるだとの確信が徐々に自分の内に確信となりつつあったのである。私には何故慈音を社会に出差ないのか、教主の意図が理解出来るような気がした。
 慈音の秘伝の修行の進行に伴い、彼の肉体的条件の悪い場合、こだま会は休会を余儀なくされた。円海大師が易学の講義を開始された時、殆どの会員が急に元気づいた。易占と云へば日本では子供でも知って居る。然して易を迷信視する反面、易者の門をくぐる人は決して少数ではない。文化人、知識人と云はるる人で易占に凝る人も珍しくはない。
 円海大師がお話して下さろふとする易学は、現在日本で易と云はれているものの根源をなす先天の易学である。貴尊が天界の学問の一部と称される此先天の易学は、実際は高等有機数学である。又その原理の一部を応用したのが東洋音楽即ち大気音波観測法、天変地異を測定する音の研究は波長の究明である。慈音老師が此東洋音楽をきはめていたことは後輩者に取って無視できない仕合はせである。
 こだま会に於ける大師の講義は(講演日記参照)数か月続いた。会員はまことに熱心であった。然し講義は中途で中止された。その理由は
 「こだま会の人達は円海が人間には魂(たましい)あり、魂を見つけよと教へたれど彼等は身心にのみ思ひをはせて唯肉体の健康とか或は肉体の栄華を計らんが為に行をなし居るに依て、身心の執着の度たかまり、魂の方向には眼を向けず、遠ざかり居るに依って大切なるものを発見する能はず。為に魂を見つけんとして、却て身心に執着の度をたかめ居るは彼等の今日の姿なり。故に慈音円海の言葉を肉体の方向にのみ任せて心を魂の方向に向けんとせず、其為に慈音円海の言葉を曲解して苦み居るなり。

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