未知日記講話集   こだま会講演日誌    第六回   衛藤欣情

 遠き先祖の時代から日本人は心意霊の区別は教えられて居た。然し外国から種々様々な宗教思想が這入って来るにつれ、いっしか固有の無二の宝を失ってしまって居た。肉体的本位の生活は、真の文化を失わせて居たのである。貴尊方が戦争に負けて打ちのめされて居る日本人を如何にあはれに思召されかは、光明論二三巻を読まれた方にはヒシヒシと感じられる筈である。
 然して此内心の動揺にも拘はらず残った二十数人男女は、慈音昇天の後迄、集会することを止めなかったのである。コーセイ、ミキョウ貴尊として奉仕されるお方が、生存時の泰岳大師に対して何となしに或種の親愛感を抱くように導かれていた。何を教ても覚ゆることの出来ない大痴のお人が、大聖の徳を積まれたと聞いては好奇心も手伝った。
 「泰岳さんはお香がお好きぢゃそうな。今頃手に入るぢゃろか、如何ぢゃろ」
 「さあ、如何でせう」
 私も半信半疑であった。いずれは商品として市に出回る日は来るであらふで・・・・・
 「戦火にあはなかったお家には、戦前のたくはへが少しは残って居るかもしれない」と、気附いた私は、見当をつけてお願ひして見た。然して彼方此方からあっまって見ると、一軒ぁたりの分量は僅少であっても、まとまると或期間支ゆるだけの量となった。
 泰岳大師は幼児から親兄弟をはじめ人々から愚者扱ひをうけて、山に連れられたお方である。そのお方が香を焚いて娯しまれたとは私には一寸考えられなかった。事実真相は間もなく私にもわかった。其は香を焚くことに依って会員の心気を沈め、気を整える方便の薫香であったのである。
 精神科学の進んでいた古代の東洋で、薫香の習慣が生じたには、その発する源は重大意義を有したに違いない。日本で死者に香を添へるようになったのも、死別によって気の転倒して居る肉親たちの気を沈め、且つ空気消毒のためであったと、私はその後老師から説明をうけたのである。世が移るに連れて最初の真意は見失はれ、果ては廃れ行くものも多いかはりに此焚香の如く仏教に取り上げられて仏まつり用具とされて居るものもあるのである。
 「泰岳さんが今日はお見えになる」と聞かされて、会衆の間には何となくかすかなどよめきが感じられた。然して一座の正面正座した慈音老師の口を吐いて
 「俺は子供の時からよくまんまんさんを拝んだぞな。皆さまもまんまんさんを拝みなされや。まんまんさんを粗末にしてはいけませんぞな」と、幼児の如きあどけない言葉が発せられた時、一同は思はず顔と顔を見合はせたのである。会員一同の面上には思はず微笑の影が拡がったと同時に又それは微笑にならなかった。老師の何となく変貌した姿に会員一同惹きつけられたのであった。そこには円熟し切った老媼の如き柔和さがあった。一同は居ずまいを正してかしこまらずには居られなかったのである。一瞬シンとした部屋内は泰岳大師が退席されると同時に、再びざわついた。それは何も彼も思ひがけないことであったようである。 

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