未知日記講話集   こだま会講演日誌    第三回   衛藤欣情

  人の精神構造は右の如く立体的には心魂霊の三層三段階に構成されて居り、陰陽の関係から心は心意の二個、魂(たましい)は魂魄の二個として此の四つに霊が加はり、此五つの要素には其々機能特質があるから、此五つを常に一丸に組み合わせ使用するようになれば、一寸先の暗は消滅して常に明となる。是が人として成長した姿である。慈音老師は此時既に此三気一体化の大法を完遂身につけて居られたのである。
 こだま会は一週一度の集会を持った。「来る者は拒まず。去る者は追わず」と、老師は私に伝えて来会者は自然の推移にまかせたのであった。講師は勿論ミキョウ貴尊が昔地上に肉体を有して在られた時の円海に返って臨まれた。もとより集り来る人々は人間は皆一代限りと考へて居る人々ばかりである。此事については格別取り立てて説明は与へなかった。是は時間を要する問題であったから、人々の感得にまかせて居たのである。
もとより円海大師は姿形を現はれたのではない。慈音老師の口を肉体を使用された。そうかと云って老師は今日の心霊学者の云ふ霊媒でも神懸りでもなかった。此説明は「未知日記」より引用、参照して理解を深めていただきたい。即ち
 「行ずれば我等の如く自由の行動をなすのみならず、分身して種々様々の任務をなすことさへなすを得るなり。現にミキョウはミキョウとしての働きをなし居る傍ら、昔の円海となりてこだま会に臨みて訓話さへなし居るにてはあらざるか。斯る事を諸子の判断にては唯慈音が錯覚をおこして、恰も巫子の如くなり居ると想像するならん。
 是等を学理に依て考へ見よ。即ち円海放送局より発する電波が、何々サイクルの働きをなして、其が慈音の有するセットに通じて放送され居ると同様の関係となり居るにて決して神懸り巫子などの類にあらず。然らば他の者に対して何故感ぜざるやと云ふに、こだま会に集り居る人達は未だ肉体にのみ囚はれて居るが故に、魂(たましい)の受信器が完全に組織せられ居らざるが故なり。こだま会の人達がやがて完全なる受信器に組織さるれば、一様に受信することを得るは云ふ迄もなし。
 慈音は永らくの間、棄死の法に苦みて漸く魂の受信器を完成なしたるが故に、円海放送局、或はミキョウ、セイキョウ、テッシン、教主等々の放送局より発する電波を受け入るるに至り居る迄なり。近代の如き欺瞞者の世を欺く神懸りとか云へる如き偽りの行者にはあらざるなり。
 分身法とは所謂一つの放送局より発電する電波の波長が、様々に変化しあると同様の関係と知らばうなずかるるならん。又姿に依りて現はさんとせば、是又電波によってテレヴィジョンともなりて現はるる事も敢て至難にはあらざるなり」

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