未知日記講話集   こだま会講演日誌  第二回  衛藤欣情

 
 結局誰でも気易く集って呉れる人達に集まって貰うと云ふことになったが、如何に誘ひの言葉を発すべきかについては私にも見当がついて居なかった。私は老師の背後につき従って修行しょうとの決心は発すべきかについては私にも見当がついて居なかった。私は老師の背後につき従って修行しようとの決心はついて居たが、教への全貌はまだいくらも把握出来ないで居た。分かって居ることと云へば、普通人は誰でも一寸先は暗と云のに、老師に限ってはいつも一寸先でも暗ではなくて明であった。その理由原因は何処にあるかが、私の老師に従ふ唯一の理由であったが、其事を親しい友達に分って貰ふ事さへ容易ではなかった。
 昭和二十二年二月四日、兎に角こだま会は発足した。集る者僅かに四人、老師を加へて五人であった。此日私はすっかりもの忘れして他に約束をしたため不参した。その位に私自身もまだ此集会にかけられた真意はつかめないで居た。会名は会員の自問自答によりこだまと命名された。私はあとで老師から知らされたのであった。然しこのこだまは単なる反響の意味ではない。
 人は生れながらにして自問自答の法は身につけて居るのである。精神科学未熟のため其の正しい用法を理解して居ないだけである。「未知日記」の講義をよく読んで理解して後ならばよいのであるが、兎に角ここにその一節を引用して読者に分って貰ひたいと思ふ。


 「自問自答の自問は、心より意、意より魂に伝はり、魂より魄に伝はり、魄より霊に伝はり、其自答は逆に霊より魄に伝はり、魄より魂に伝はり、更に魂より、魄より霊に伝はり、其自答は逆に霊より魄に伝はり、更に魂より意、意より心に変ると同様にて、魄に有する第四の鏡は魂より映ると霊より来るとの両道が現はれて、正しき結果の報知(明示)は見らるると承知せよ、是自問自答の正しき原理なるに依り、此法を完全に行得るに到らば、霊妙不可思議の徳は現はれて決して毫も過誤を教ゆるものにあらざることを知らるるに至らん」

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