未知日記講話集   こだま会講演日記   第一回   衛藤欽情

円海大師の慈悲
                
                   
                 こだま会       衛藤欣情


 敗戦の結果外国の占領下にあって日本国民は明日の米麦に事欠く昭和二十一年の秋であった。日本国民の受けた心の痛手はまだ血をふいて居て、将来の見通しなど誰も見当もつかない時期であった。
「ね、先生、そんなむづかしい事は仰有らず、私共の周囲から来て呉れる人を集めてはいけませんか」
 其は老師慈音が刑務所から昨日出て来たような人々を集めることは出來ないか。彼是と社会からのけものにされているような人々を集めて話をしたい。相談にのってやり度いと言はれたからであった。
老師の真意が何処にあったが私には分からなかった。唯現在の私共が常識的な生活をして居て簡単に老師の望まれるような人々を集めることのむづかしさを私は知って居ただけであった。
 「易をみようか。そしたら困った人達が集まって来ようから」とも言はれた。私はびっくりして「とんでもない」と反対した。老師が易占をやったら、押すな押すな人は集まるであらふ。然し困るのは老師で又家人であらふと云った。
 かうして二人、老師と私と(欣情)の間にはもたもたとした未決定の言葉が交はされて数日が過ぎたのである。然して此の人集め希望を最初に仰せ出されたのがインショウ、ミキョウ貴尊であることを私が知ったのはずっと後のことであった。インショウ、ミキョウ貴尊即ち日本人あった円海大師は「智識具足して、実に尤もと感ずる人に於て行ふ法なれども、現在の如く混濁したる日本人を育成指導なさんと計らば、到底消極的方法に頼み居りては、人心を柔ぐるに時間を要すべし。故に我は憂慮のあまり教主に斯くと告げて許可を受け、一方慈音を促して未信仰者を集めて我は講演して初心者の為に計らん事を誓いたり」と、深い深い慈悲の御心から出たものであった。

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