重要記事なので再掲します  帰途案内記   人が死んだらどうなるか  セイキョウ貴尊講義


貴方が死んだらどうなるのか  単に魂は無に帰して霧散してしまうのか、それとも天国、極楽、そして地獄に帰するのか、そのことに関しての答えがここに書かれています。どうぞ真剣に読んでみてください。重要記事なのでここに再掲します。


覚者慈音   帰途案内記    セイキョウ貴尊講述


 余事は兎に角、魂の緒の全く切れたる後に於てこの三種の相違あるによって、天界に運ばれ来る者、みな其々程度に応じて居を異にするは、是又当然なりと考へざるべからず。霊は魂の力の程度を知るによって、その程度に応じて運びをなし居ることも、前説によって察せらるるならん。浮住界に長く止まりて、種々様々な苦みをなし居るとも、霊は離れず。さりとてその苦みをのがれしめんとはなさざるなり。前書にも語り居る如く、霊は善にも従ひ悪にも従ふ。悪人が善に化すれば霊も善に化し、悪人なりとも善人なりとも、その程度に従ひて霊ははたらく。されど魂には苦痛を感ずれど、霊には苦痛はあらざるなり。
浮住界に於て永久迷ひ居らば、霊は共に是に順じて離れず。故に霊の力によって永久死滅せざるなり。死滅せざるが故に、永久の苦はまぬがれざることも推して知ることを得ん。故に一旦この魂が悔悟して浮住界に於てめざむれば、忽ち霊も是に応じて安楽の境涯に導くと知るべし。浮住界に於て前非を後悔なして正道につかば、霊は是に応じて安楽の処に到らしむる力を有するが故に、この霊に有する特殊の力が働らきて、魂は悔悟することを得るも、是即ち霊の威徳によるなり。苦みを味はひて唯苦みに悶え
居りては、何時かは覚むる事あらん。此事あるによって我等肉体を有する間に、修行しおかずば魂の緒切れての後の修行は、至難なりと教へしも是なり。浮住界に迷へる魂は、苦みを苦みとして悶へ悩むのみにて、悔悟して己が非を覚る事を知らざる魂の余りに多きを見るによってなり。浮住界に於て斯かる苦しみを得たるも、何か前世の罪ならんと悟る事を得ずば、到底此苦患を脱すること至難なる故なり。修養修行なき魂は唯苦むのみにて、その原因をたしかむる力を具へ居らざるが故に、悩むのみにてさむる事をせず、永久の苦に悩さるるのみなるによって、我等は肉体の有する間に、修養修行して持続魂に化し居らば、たとひ浮住界に置るるとも、前世の原因をさとりて悔悟する力備はり、その力によって苦患を脱することを得るによって、斯くは教へ居ると承知せよ。

たとひ神を知らずとも、自然に順応して人道全きを得たるものならば、神を知らずとも是等は浮住界より如意界に移され、更に又他の場所に於て修養し、然して魂の稔り完全になりたらば、又界を変へて其々到るべき処に移さるるは云ふ迄もなし。故に信なきものと雖も人道を正しく渡り居らば、其は自然に順応したるものにて、信の力は表面に現はれずとも、二葉を出して最後は稔りを得るに至ると思はば、要は人道を正しく渡るに不如との結論となる。然るに人は肉体に重点をおくによって、人道を正しく渡る人は少なし。大抵は横道冥道に迷ひて自然より遠ざかる故に、浮住界の苦はまぬがれざるなり。是等の事柄より宗教の必要に迫らるるなり。
然るに宗教の多くは人心を迷はすのみにて、正しく人道を導くことを得ずして、却ってその宗教がわざわいとなりて迷信妄信を誘発し、為に浮住界を賑はすことの多きは真に遺憾の極みなり。宗教を信じて信の力拡大するとも、誤たる道を踏まば、その信の力の為に却って苦をまねく事多し。故に宗教は選ばざるべからず。
我等の見る処には宗教者の教へ導き正からざるが故に、浮住界の
苦をまねき居るもの夥しくあるを見て、実に憫を感じ居るものなり。
信仰の力はきはめて大切なり。されどその信の力が迷信とならば、身を亡ぼし魂を傷くる結果となる。真に恐ろしき事なり。其は兎に角第三の場合と雖も、神を罵り己が智慧に誇る如き人は、正道を歩む人にあらざるが故に、勿論是等は浮住界に苦みて、使子の手をのがれて尚も苦みを重ね居るもの、是又少なからずあるなり。世人は肉体を有する間の苦みを、長き苦みと思ふは誤りなり。又肉体の苦みに慣るれば、他より見る程の苦みとはならざる事も多からん。されど浮住界の場合の苦みは、習慣性の苦みはあらざるなり。肉体の苦みは或る場合麻痺状態となれど、浮住界の場合の苦みは度を重ぬる程猛烈となり、何時かは失はるるものにあらずと知るべし。故にかかる場所にて苦まんよりは、肉体の苦みの短き間に、滅後の苦みをうけざるよう修養して正道を歩むに
不如と、我等は世人に注意なしをくものなり。されど世人は我等の説を否定するならば其れにても可なり。

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