未知日記講話集   未来観 その五e     教主寛大講義

未来観 その五       教主寛大講義
                                                                         
 汝等衆人の住める地球の表面は、古来より徐々に変化なし来りたれど、古今を通じて今も変化せざるものは、空気と水と風と雲ならん。汝等衆人の日々の生活に於ても亦斯る類のものはあらざるか。人間の形状が古来より現在に至りたる間に著しく変化し来りたれど、人と云ふに変はりなく、又心と云ふに至っても変りなし。もとより古今を通じて賢愚の差はあるにもせよ、心と云ふに至っては同一なり。未来観を知るには有形に囚はれ居りては、決して確実なることを推知することの難きは、此理に基くが故なり。故に未来観は無形の空にのみ頼らずば、正しき解決は得られざるなり。空は空に和し、霊は霊に和す。
さればこそ古今を通じて変化せざるものは風なり。雲となり水とならば、形を有形に化せられ行くが故に、変化あり。汝等衆人の考へは同じ空の中にも、恰も雲と水の如き有形の空を聯想するが故に、正しさとりは得難し。又真の未来を想像するも難し。風は動揺して、是又混濁す。空の中の空に於ても亦、かくの如き関係あり。空気に於ても是又同じ関係を有す。故に空気を浄めてすべてを清浄し、空気の中に全く何ものをも含まれざる程度迄きよめ尽せば即ち霊気となる。此所迄至らしめずは真の未来観の結果は得られざるなり。是を名附けて大霊に帰すると云ふなり。大霊にかへりて更に又空気の方向に歩を進むれば、ここにはじめて宇宙全宇宙の姿が明瞭となりて、すべての理は明白となるなり。のみならず行きては帰り、帰りては行く順序も、認識する事を得て自由自在の境涯におかるるなり。是を名づけて不去不来の境地と云ふ。汝等衆人は不去不来の境地とは、一定の場所に置かるることを、不去不来と思はば真の悟りを得ること難し。行くも自由なり。帰るも自由なり。到らんとすれば意の如く、帰らんとすれば心のままになる事を得ずば、不去不来とは云はれざるなり。我、斯ることを語りなば諸子は、我等を狂人の沙汰として嘲笑するならん。斯る道理を説きても我等を狂人と思ふ底の人ならば、如何に努力すとも天界の妙味を味ふこと難し。又真の安楽境に入ることも困難なり。汝等衆人は朝に我家を出でて、夕に目的の地に赴かんと旅する時、途中にて何かの故障ありて、その所に到るあたはずして日を暮す事もあらん。朝に我家を出づる時、この事あるを予知するならば、其に対して何等かの方策を講じてその障碍を免がるることを得るに不拘、其を知らざるが故に途中にて挫折するなり。もし汝等諸子に於て生涯のすべてを予知し居るならば、安らかに過ごすことを得るに不拘、是を知らざるが故に前途を暗くして迷ひを深かくするのみ。汝等衆人我等の語る説を正しく認識して、一生を予知する事を得るならば、安楽より安楽の世界に入ること難きにあらず。
 汝等衆人の住める地球は日を経るに従ひ、目まぐるしき変化なしつつあるに不拘、汝等諸子はその変化を先に予知し居るならば、其に対して臨機応変の処置をなしつつ進むことを得るならん。然るにその変化なし行く事を予知する力なきが故に、己のたてたる計画が挫折して、或者は破産し果は自殺などの憂目を見る如き結果を招き居るにてはあらざるか。我等諸子の世渡りを見るに、頑固なる人は古来の風習を固守してゆづらず。如何に説明せらるるとも己が意志を曲げんとはなさざる底の人などは是自由を知らず。不自由のなわめに縛られ居るが故に、何等なすこともなく暮らし居る人は多し。世の移り変りに従ひて臨機応変の処置に出づると云ふことに対して、汝等諸子はそは世に云ふ八方美人にして、思慮分別定まらざる愚鈍者なりと思はば其は大なる誤ちなり。我等は八方美人の如き優柔不断の者になれよと云ふにあらず。古来の風習を固守してゆずらず、頑固一徹の人などは、機を見る眼識が乏しき故、疎んぜられて敗残者となる。機を見るに敏なる底の人になれよと勧むるなり。されど正しき古来の風習ならば決して捨つべからず。その風習を基として巧みに是を応用するにあらざれば、如何に機を見る眼識ありとも変に応ずる方法は得られざるが故なり。是をなわめを解けよと云ふなり。縛られ居るが故に応用する事を得ざれど、正しき風習ならば巧に応用すれば如何にともなるによってなり。我等は諸子の世界が今後如何に化せられ行くかを既に推知なし居るが故に、未来は斯くなると云ふ正しき事柄を既に察知し居るなり。然して其は決して誤つことなし。此理を諸子は如何に解釈するや。我等は前途を照らす光明を有するが故に、明らかに観望なし得るに反し、諸子は前途の暗黒を照らす光明を有せざるが故に迷ふなり。前途を明らかに照らす光明を求めずば、迷ひは益々深刻となるのみ。是あるによって我等は諸子に対して光明を与へんとして努力なし居れど、諸子は我等が意中を汲むこと能はずして、悩みを深くなし居る事は我等よく知る。故に諸子を導く方法として斯くもまぎらはしき説明を与へ居るなり。是に対して慈音は具体的にくはしき説明せよと再三再四訴へ居れど、我は是を斥けて肯ぜず。汝等衆人今少しく忍耐して我等が言葉を聞くべし。急ぐこと勿れ。心を平にしてよくよく考へつつ聴き居らば、やがてその神髄に触れて明白なる光が点火せらるるならん。次に掲げて一つの例話をおくるべし。よくよく咀嚼玩味せよ。

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