覚者慈音9    未知日記第一巻より  彷徨える魂魄   現セイキョウ貴尊講義

さまよえる魂魄について


 邪淫の戒めにて説きたる如く、是等の魂は気の合ふ処の母胎を尋ね求めて、是に宿りて残余の定命を全うするもあり。然らざるものは地上又は空間をさ迷ひ居るなり。斯く語らば汝等は云ふべし。若し宙に迷ふならば、その魂は知己身内などに救ひを求むべきに、未だ死したるものの音信を聞きし事なしと。然からば問ふべし。汝等が知己のもの転宅して通知なければ何処を尋ね求むべきや。恰も要は是に等し。
肉体分離したれば意のつながり切断されて居所不明となる故に、尋ね求むる道さだかならざればなり。心と肉体の関係切断せられたれば、熟睡中に他の場所に運ばれしも同様にて醒めて尋ねる人もなしと云ふ状態となるなり。
肉体を有する間に於ても、健忘症とか、又は痴呆症とか云へる病気にて、過去の経歴のすべてを忘るることさえあり。まして肉体を離れたる魂魄は是を忘るるは当然なるべし。
然からば怨恨とか念も忘るるにはあらずやと思ふならん。是等は如何なる事かと云ふに、即ち怨み恨まるるは念は相手の魂と此方の魂との波長の継続が、気光素に依って接続せられある故に、何処に於ても感応なし居るなり。恰も無線報知器の如しと思はば可なり。
霊魂も特別の場合この波長に合したるものには、善悪を問はず通ずるものなり。されば完全なる機械を発明せば魂魄は見る事も得べく、又聞く事も得らるるなり。此他修行にたけたる人、又特殊神経的の人にも魂魄見ることを得るなり。天性異様の人に見ゆるは危険にして注意せざれば、精神病者となる怖れあり。斯かる人は己自らを神の如く考へ、又周囲の人も然あらんかなど、あさはかなる感を起す過失の神となりて、果ては彼を狂気せしむるに至らん。慎むべきにこそ。
此他俗に神懸りなど称する事のあるは、即ち一種の変態性神経病者に多し。修養修行の力通達したるものならば、決して神縢りなど云へる誤したる事をなすものにあらざるなり。神は懸かる愚かなる事を行はしめ給はず。されば決して是等の事を信ずる勿れ。総じて是等は浮住界の魂の悪戯による事多ければなり。所謂山神鬼神或は外道の制多に帰依する者には、懸かる表面眩惑の仕業あるも彼によりては救はるるものにあらず。
斯く説き来る時、汝等は云ふべし。天寿を全うせざるもののその残余は空間に浮住するならば、全きを得たるものは如何あらんと。尤もなる質問なり。修行の道を得たるものは迷はず。然らざるものは浮住界に迷ふなり。故に肉体を有する間に道を求めざるべからず。寿命全からざるは、又宿る事を得れども、全うせるものの迷ふは長時の苦を離るるを得ざればなり。


汝等は肉体の艱苦耐へ難しと悲鳴をあぐれど、肉体を離れし魂魄の苦が、直接に受くる苦患の程度を知らざるが故に修養を怠るなり。肉体の苦患は魂魄が受くる影響に比しては微々たるものにて取るに足らざるに、汝等は其れすら耐へ難しと悲鳴す。されば肉体を離れし直接の苦しみは薬石なきを考へて一日も油断せず修養を怠る勿れ。我呉々も声を大にして注意しおくなり。
迷へる魂魄は浮かぶと浮ばぬと、地下に潜るとありて一様ならず。甚だしきは永遠に天地間を往来するもあるなり。さりながら汝等が物語に聞き居るとは、其の有様や其の趣を異にするなり。悪鬼に追はれて逃げ惑ふとは、即ち動物のたけたる霊に追はれてさ迷ふなり。又地上に未練を残して昼夜同じ処をさ迷ふもあり。汝等幽霊は夜のみ迷ひ出ると聞き居るならんが然らず。昼も迷ひ居るなり。主として昼も夜も迷ひ居るは魄なり。宙にぶらつくは魂に多し。又空間を超へて深く眠り居るもあり。是等は千差万別にして一様ならず。或者は再び三度人界を求めて宿るもあれば、動物に宿るもある等、迷へば斯かる醜き姿をさらすことを見ば、汝等戦慄を感ずるは疑ひの余地なかるべし。道は一筋なりと心得て、早く神の世界に上らんことを願ひて、此話を終らんとす。汝等よくよく工夫努力せよ。


泰学大師の地上での修行時代


私(円海)は彼に訊きました。「貴下は何が一番嫌いですか」とすると彼は「わしは殺生は大嫌ひじゃ他には好きも嫌いもない。」と言はれました。其処で私は、「では貴下は殺生はしませんか」と念を押すと、「決してせぬ」と云ひますので其れでは「日々の食事は殺生ではないのですか」と、彼を試す心算の悪疑心から揶揄半分訊いた事が、私にとっては生涯修行の一大教訓となろうとは夢にも知りませんでした。
慈音さん、彼は何と答へたと思ひますか。斯うなんです。彼は真面目になって私を睨みつけて重い口調で斯う云ひました。
「お前は食事をするのを殺生で喰ふのか。そんな事ぢゃから、わしの倍も喰てやせるのぢゃ。何故物を活かして喰はぬのぢゃ。死んだものでも又活かせ。生きたものなら死なぬようにして喰へ。死んだものを活して使へ。わしは殺生は嫌ひぢゃ殺生するものは尚嫌ひぢゃ」と恐ろしい権幕に睨まれた時は、さすが図々しい私も彼の前に頭を下げない訳には行かなかったのです。
私は其の事を師の坊に申しあげますと、師の坊は暫時考へて居られましたが何を思はれたのか、全部の徒弟を集めて彼等の錫杖を一カ所にならべさせ、「泰岳よ、この中にある汝の杖はどれじゃ、其処から指して見よ。」と云はれますと、彼は立とうとも見ようともせず唯大声で「杖、来い、杖、来い」と二声云ふと、一本の錫杖はすべるように彼の手元に行きました。彼は静かに是を師の前に差し出して「是でございます」と我名も見ようとせずさし出しました。師の坊は姓名を見ると杖には彼の名はたしかにしるされて居ります。他の弟子達は是を見て泰岳は師の前をも憚らず魔法を使ったとさわぎたてるのを師の坊は、手を振って是を止め、「汝等静かにせよ。泰岳は魔法を用いるならば我は許さじ。さりながら今彼の行ひしはけっして魔法にあらず。真実なり。円海よ。是によりて彼のことばは明らかに察するを得たれば、我、彼に代はって汝等すべてに説き聴かせん。我、彼の法力を見るに決して優れたるにあらず。寧ろ汝等の業は優れたり。然るに効果の点に至って到底汝等の及ばざること、遙かに遠き見て、我は彼の天分の然らしむる所ならんと思ひ居たりしは誤りなりしことを彼の言葉によりて知ることを得たり。即ち彼はすべてを活かして用い居るなり。言葉も呪文も活かして用い居るなり。汝等の行法は活かさんとして業行ひ、彼は最初より活かして用ゆ。いかすといかさんとなすとの相違は、斯くも隔たりあるならんかと我も教へられたり。生きたる行、生きたる呪文、さては言葉に至る迄彼は生かして用い居るなり」と すぐる日、我の許に宿を求めて来りし行者が、夜荷物の中より尊像を取り出して勤行中礼拝なし居るを、泰岳は訝しげに眺め居たりが勤行終るや、彼の行者にむかいて云ふよう、「其の像は神の造りしものなるか。人の造りしものなるか」と
行者少時呆然(ぼうぜん)たりしが徐(おもむろ)に口を開き、「汝等も修行者なれば何故に斯かる質問をなすや」と泰岳直ちに、「我、行者なるによってきくなり」と修行者曰く、「さらば我、神の造りしと云はば汝、何とするや」泰岳曰く、「然りとならば、何故生をうけざりしかと訊んのみ」行者訝りて、「そは何故ぞ」泰岳曰く「其像は死し居るによってなり」と憚らず答へたるに行者色をなし、「この尊像を死物とは過言ならずや」泰岳曰く「死し居る故に死せりと云ひしのみ。過言にあらず。汝、尊き尊像ならば、我にしるしを示めせ」行者曰く「汝、死物と公言するならば我にしるしを見せよ。」泰岳曰く、「訳も無きことなり。我、二〇間をへだて、警蹕(けいひつ)の声を出して、尊像に異状なく、我に異状を与ふればその像には生あり。されどその像、飛散するならば死物と知れよ」とて、彼は二〇間余も離れし場所より警蹕(けいひつ)の声を放ちしに像は飛散し、行者もその場に倒れたり。行者はその像を地上にたたきつけて其の夜下山したりと、他の徒弟より我はききたる事ありしが、あまり心に止めざりしが今思ひあたる事あり。彼、泰岳はすべての理論を超越して宇宙を己自らとして其の儘を我手足の如く働かせ居るを知りたり。神は泰岳の如き物を娑婆に下して神の道の真髄を一般に示めし給ひしならんと思ふなり。汝等、信仰の法を彼を手本として学ぶべしと。


業を修めて後に理を究むるは易く、理を究めて後に業を修むるは難し。汝、慈音よ。インショウ、ミキョゥは此門より修行の至難なるを慮って特にもとの円海(闇戒)にて汝の為に、昔ありし日の実話を以て此門より道を容易に進ましめんとの情ある行為を、慈音はあまりに平凡に受けて唯前進を急がんとなすは宜しからず。
泰岳の眼にはすべて生きたるものを見て、死したるを見ず。然るに行者は死したるものを拝むはその像を活かさんとなすならんと思ひて、泰岳は見きはめ居たりならん。然るに彼の行者は然らずしてその像にしるしを求め居るに不審を抱きたるにより、神の造りしか人の造りしかと問ひただしたるなり。然るに行者は「我はこの玩具を目標として他人の妨害を防がんとするなり。」と答へしならば泰岳は黙したらんに、行者は未だ悟するを得ざる人なるによって、斯かる失敗に終はりたるなり。泰岳は草木はもとより家も家具も皆活かして眺め居るなり。行者が持てる偶像も仏の形に造りたる玩具とならば死せりとは見ざりしならん。又泰岳は「杖、来い、杖、来い」とよびて杖をよびたるは己の飼い犬が多くの犬の群と遊び居るをよびたると同様にして、魔法にあらざるを師の坊は知りたるなり。然からば斯かる事が果して行ひ得るかと云ふに、是は汝等には到底理解するを得ざるならんと思へど、とにかく理論のみ説明しをくべし。総じて行者達は魔法を用いて斯かる行ひをなすは易し。又斯くの如き法を行ひ得ずば行者としての価値はなきなり。されど魔法を用いずして、泰岳の如き行ひをなすは難し。何となれば魔法には特殊の業ありて行へども、魔法にあらざる業は、杖に生命を与へずばなし得るものにあらず。泰岳は杖に生命を与へて是を活かし居るによつて、よべば口こそきかね声に応じて来るなり。もし杖にして口あらばオーと答へたるならん。我、斯く語らば汝等は思ふなるべし。
先に偶像を拝したる行者の持ちし像に泰岳の如く、魂を持たせなば可ならんにと。其は余りに何も知らざるものの考へなり。泰岳は人の造りしか、神の造りしかとの事柄をたづねたるも是あるによってなり。人の造りしものに魂を入るるとも、神のはたらきはなさざるなり。然るに行者は神としての祈りをなせしによって、斯くは尋ねたるなり。たとえ偶像と雖も神の造りしならば神のはたらきあり。人の造りしならば人の働きにすぎざることを泰岳は知れる故なり。されば杖には杖の働きあり。柱には柱のはたらきあり。皆其々に魂を与ゆれば本分に従ひてはたらく。されど我、斯く語るとも、汝等現今の学力にては理解するは難し。今少しく科学の力進歩しなば理論を知るは容易なるべし。たとへば一個の機械にも動力を与へずば運転をなさざるならん。即ち動力は魂なりと考ふれば頷かるべし。すべて動力を与へて物を活かせと云ふなり。
泰岳は殺生を嫌ふは動力を奪ふを忌むにて働く物の働きを奪ふは殺生なりとて厭ひ居りしなり。すべてを活かせよとは誰もが口にすれど、事実行ひに移すことは容易の事にあらず。されば其の心がけにても平素貯へをかば、従って其れが習慣とならばこの習慣より新しき道の生まるるものなることに留意せよ。
泰岳は食物を活かして喰ふとの行ひに対して、汝等は感謝して食するならんと考ふるならん。其れもその中に含まれたらんも、泰岳の場合は大いに異なる教へあるなり。汝等はよく云ふ、腹八分目医者不用とか云へる言葉の如く、彼は食物は身の養ひに必要欠くべからざる薬の如くに用い居るなり。されば彼の摂取する食物は多からず又尠なからず。肉体の欲求に応じたるを用ゆるにて、汝等の如く美味ならば多量に摂取し、美ならねば少量を用ゆる如き事をなさざるなり。故に彼は他人の食の半分にて己の健康は保たるると云ひ居るなり。汝等は過食して身体を害するは食物を殺したるなり。如何なる銘菓も多量に服用せば毒となりて身を害(そこな)ふ。是即ち殺生となる。是殺生の罪なり。報なりと知るべし。
さて是よりは大切なる教へなれば率爾に聞くこと勿れ。すべてを活かすと云へる中にも最も心すべきは言葉を活かすと云へる事についてなり。汝等は言葉と云へば口より出づるものとのみ考ふるならばそは大なる誤りなり。泰岳の如き僅か一句の呪文を記憶するに一ヶ月余の日時を要する程度の者にして如何でか多くの言葉を有すべきに道理あらんや。然るに彼に接する者はすべてに感化され、又至難なる問題も解決するを得ると円海は話したるにはあらざるか。この事によって考へを推し進め見よ。汝等が同国人の中にすら言語通ぜざる事は屡々体験するならん。言葉は便利なれど通ぜずば又不便なるものなり。斯かる事を彼に語りたしと思へど、さて適当の言葉を如何に考ふるも浮かび出でず、口ごもりて却って先方を不愉快に終らしむることあるならん。是等は活きたる言葉にはあらず。又汝等は名文は活きたる言葉と思ひて美文名文に心を用い居るを見る、もとより美文名文も生きたる言葉の部類に属したりとも云ひ得るならん。されど我等に云はしむれば、生きたる言葉と云はんよりは寧ろ優れたる言葉と云うは適当ならんと思ふなり。言葉は一種の約束符号なればなり。されどその言葉にも生死はあるなり。生死あればこそ人をも怒らしめ或は悲しましめ、或は楽しましめ喜ばしむる等々のはたらきあるなり。我等が云ふ言葉とは斯かる範囲のせまきを語るにあらず。神はもとより人類獣類鳥類或は草木に至る迄通ずるにあらざれば真の言葉とは云はれざるなり。汝等日本には「言霊」と云う言葉を用い居るを我は聞く。「言霊」とは言葉に魂を有せしむると云ふ意味にてはあらざるか。然りとせば生きたる言葉を云ふならん。言葉に生命を有すると心付きしならば、日常の生活をその言葉を応用してすべてを活かして世渡りをなさざるかと我は不審に思ふなり。

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