父祖の足跡 11  父の人生

 
文化祭にて
庭にて



 親の欠点を探せば、人間だから際限がない。それよりも数少ない美点を挙げてみよう。先ず、美点その一、父は若い頃から絵を描くのが好きで、よく描いていた。六十歳頃に作風が一変し、墨絵に没入した。七十歳頃迄次から次へと墨絵を描いて、市の文化祭になどに出品していた。京都の方にも出して、賞を幾つかもらったこともある。冗談で、来世はいっちょうこの道で喰っていくかと笑いながら云っていた。
 美点その二、若い頃はさほど上手ではなかったそうだが、巧い人の字をみて、それを真似、長年修練を積んだようだ。胸元のポケットにいっも筆ペンを入れて、決してボールペンを使わず、筆で字を書くことを常としていた。お蔭で墨が洩れて親父のシャツのポケットはどれもこれも皆真っ黒けになっていた。それを見て、お袋がいつも怒ってい居たのを覚えている。字は個性的で百人の中からでも瞬時に峻別出来る字体だ。漢字と云ふよりもどちらかと云へば絵に近い文字だった。好みもあるだろうけど、私には華麗に見えた。だが脳梗塞を患い、利き手である右手がやられ、不自由になり、好きだった絵を描くことも筆をとることもやめてしまった。
 美点その三、自分が貧しい境涯に生れたので、同じ境遇にある子供等に貧しき中から、自分に出来る範囲の援助を匿名で長年やっていた。私がそのことを知ったのは、その成人した子の一人が我家を訪れ、父に礼を言いに来た事から父の善行が初めて明らかになった。この時ばかりは親父を心底、尊敬した。
 美点ではないけれど、旅行も若い時からよく行っていた。一年のうち悠に一か月は何処かへ旅していた。人との交際も多岐に渉り、何々会、何々会といろいろと付き合いを広くしていた。問屋が来ても「開口一番、社長は今日はどちらに行かれて居るんです」と云ふのが、先ずは最初の問屋の挨拶だった。だから子供だった私達も、商売はすべてお袋が一人できりもりしているものと錯覚していた。あの明治の人間もそうだったが、大正人もそれに劣らないほど気骨はしっかりしている。精神も肉体もその強靭さは現代人の比ではないほど強い。それは戦争を体験して、既に一度は死んだ身、後の人生はすべておまけ、おつりの人生と心得ているせいなのか。例え今、町が灰燼に帰したとしても、「なにくそ」と、もう一度出直す気力はとても旺盛なものがある。それは戦場で幾たびか生死をさまよい、戦後の荒廃から立ちあがった、大正人としての自負が云わせるのだろう。線のか細い現代人も、明治、大正人から学ぶ点は余りにも多い。今回父母の生きた軌跡を調べていたら、親父の旅行に行った際の写真の多さに驚いた。親父の最後の美点をあげるならば信仰心が篤いということか。深夜どんなに泥酔して帰ってきても、仏壇に詣り、そのあと就寝する。親父の知人に訊いたけれど、「あんたのおとっあんは温泉に行っても、必ず寝る前には手を合す。あの心がけは立派だ」といっていたことを何遍か聞いた。家でも毎朝、仏壇に向かい下手なお経をあげる。その後先祖から始まり自分に関する亡くなった我家の先祖の方々、そして自分の父母を始め、戦友友人知己の名前を紙も見ずにすべて諳んじて百名近くの人の名前を称え、その人達の成仏を祈っていた。故人への回向の功徳、それが果たして効あるかなきかはともかく、その姿勢には大いに見習うべき点がある。
 生前病院に連れて行くとき、車に乗せる。車中でも、か細い声で「ありがとうなぁ、ありありがとうな」と云ふ。病院でスリッパを出してやる。そんなちょつとしたことにも感謝の言葉が洩れる。こちらは胸が詰まって返事が出来ない。ああ、段々親父は仏さんになってゆくんだ。あの子供の頃、怖かった親父がまるで女性のように優しく変貌している。これが親父の解脱法なんだ。生への執着を、感謝の拝みを重ねながら少しずつ消去して、いま最後の仕上げにかかろうとしている。
 未知日記一巻に次の言葉が書かれている。
「蝉は十三年地中に苦しみて、僅かに旬日啼きて死すと聴く。梢に謳う蝉の声こそ、蝉としての天界を知悉りての喜びの聲ならん。蟲にして尚、斯くの如き忍苦に堪ゆるなり。況や人間些かの苦痛に悲鳴を上げ、決して死を厭ふべからず。未だ生の尽きざる間に、天界を知ることこそ望まほしけれ」と
 親父は自分のキャンバスに描かれた集大成ともいえる絵に、最後の仕上げの絵筆をとっていた。この父祖の足跡を書きながら生きて居た頃の父を想い、幾度も幾度も涙した。本来ならば秘匿すべき小さな些事すらも、公のブログの中で蝶々せしことを深く皆様にお詫び申し上げます。恥ずかしながらこの拙文をもって、父母の冥途からの寄稿文、その代稿とさせて戴きます。これで親父が私に伝えようとしたことの幾分の一かでも履行することができた。また思い出す事があれば筆を随時加筆するつもりだ。今生の縁は切れたとしても魂不滅なればこそ来世、来々世へと無限にその縁は続く。親が孫として生れ、その孫が軈て又親になる。そうした螺旋階段を登るが如くにして、魂と肉体の進化発展が並行してなされるのだろう。その時には又父の子として教え導きください。
未知日記第一巻に次の言葉がある。
「生れずばこの苦みのなきものと、思へば生みし母ぞ恨めし」と云へるを我は聞きたり。汝等は如何に思ふや。斯る暴言を敢てする此人こそ憎くしと思ふや。不憫と思ふや。又不幸者と指弾するや。又偽らざる言葉なりと、我等もこの体験ありしことよと共鳴し同情するや。そは汝等の意志に任せん。
「人として生れしことの嬉しさよ、父母のありしは尊かりけり」と云へるは、此返歌なるべし。大凡人間として生れて真の尊さを味はひ得たる人は、指折り算ふばかりなるべし。他の多くは人間としての喜びを知らざるが故に、父母を怨むなり。人身を受けたる喜びを知る人は、父母に感謝するは当然なりと


 今思えばこのような懐旧譚の蒐集は、故人を知る多くの親族が集まる法事の場などで、聞き取るべきであった。一個人の記憶容量では余りにもその内容がお粗末で貧弱過ぎた。もっと早くにやっておくべきだった、そのことが一番悔やまれる。父の生きざまを調べてみたら、とても起伏の多い内容のある人生であることがわかった。その点、私の人生なんぞは父と比べたら、ホンの数行で事足りる。ホントに薄っぺらで平坦な人生だつたと思ふ。人間は誰しも霊界に生れし時、粗雑で濁りある魂(たましい)を神から授けられ、これを今生、磨きに磨きあげて神に返上せよ、との厳命を与えられてこの世に生誕する。父は字義の通り、赤貧に生れ、あらん限りの困苦を背負いて、父は父なりに出来得る限りの魂(たま)に仕立て上げて神に返上した。きっと神から相応のお褒めの言葉を賜はったことだろう。父は来世、新たな次元からの出発になる。いつか又父母と違った時空の下で邂逅する日も必ず来る。その日まで、どうぞ御両人ともすこやかにお暮らし下さい。
これを執筆中、下記の神霊の清めの詞(ことば)がよぎる。どうぞご一読あれ。



静けき時を御前にささげまつりて、日々に賜はる深きめぐみを謝し奉る。禊(みそぎ)なすことを識るも霊を清むることをしらず、うかうかと過ごし来にける此の身、
いま御前に平伏し願(ね)ぎまつるなり。
初めに神、天地(あまつち)を造り給ひ、光と萬(よろず)の物を賜ふも知らで、愚痴と気儘は言はずもがな、罪や穢れに埋もれし者をも捨てまさで、育み賜はりし忝なさ。
神よ許させ給へ、朝(あした)に祈り善きことを為さで、願はざる悪に捉はれ夕(ゆうべ)に詫びまつる愚かさ、今悔ひ改めて清く正しく仕え奉る。此の身を護り給へる霊(たま)よ、我と共に在りて神の霊言(たまごと)に應(こた)へさせ給へ。
吾等、心行一致して神旨(みむね)を拝したてまつるなり。



萬の物を神に享け、 示現示教(じげんじきょう)を旨として
神の證(あか)しをなすべきに、為さで神心(みこころ)痛むなり。
良き範(かた)とこそ成るべきも、何時しか忘れ過ごし来ぬ。
己が心を本(もと)として、他人(ひと)の栄達嫉(そね)みては
智慧と力のあらぬ身を、あるかの如く粧(よそ)ひきぬ
不平不満の生活(たつき)ごと、寝起きに小言重ねつつ
私欲の為の争ひや、労を厭ひてかげ日なた
他人(ひと)の悪口蔭口と、飽かぬ貪り数しれず
人の踏むべき道をさへ、踏まで来にける愚(おろか)しさ
縋り求めしもの皆や、救ひの聲も顧みず
神を神とも思はざる、心行ひ憂(う)たてさを
今悔ひ更に改めて、朋友同胞(ともはらから)と扶け合ひ
困苦の重荷背おひてぞ、為すべき行(わざ)に務(いそし)まむ
任務(つとめ)を果し欣(よろこび)て神に、帰へらむ道をふみ
生命(いき)ある限り神仕へ、死しては霊(たま)の群れの友
尊き神の御議(みはか)りに、生(あ)れたる幸(さち)も思はずて
日毎夜毎に愚痴多く、兎角(とかく)我身を先にたて
不知不識(しらずしらず)に犯し来し、罪や穢れを赦しませ
弛む心の出でもせば、笞(しもと)を加へたまへかし

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