覚者慈音1667      未知日記 第十一巻   絶対界   テツシン貴尊講述

覚者慈音1667

絶対界  第十一巻
巻の一
テツシン貴尊講述

2020.01.22


緒言


 セイキョウのあとをうけてテツシン今日((昭和二十五年一月十六日)より此篇を講じて諸子に語らんとす。諸子はテツシンが説を聞きて些少にても得るところあらば我の幸是に勝るものなし。願はくば暫時まなこを向け耳を傾けられんことを !
 ここに掲げし題目は絶対界と名づけたり。絶対とは何か。諸子はこの言葉の意味を正しく知るにあらざれば、テツシンの説を聞きて誤認すること多からん。諸子は日常談話の句に絶対と云へる語を余りに多く濫用なし居るによって、却て正しき絶対と云ふ意味を認識なし居らずと思ふなり。諸子の考ふる絶対とは相対の中に含まれたる一種の言葉にして、

相対を離れたる絶対を誤認なし居ることを知るによって、聊か注意なしをくものなり。絶対の中に含まれたる相対と、相対の含まれたる絶対とには隔大き故なり。例へば諸子は日常談話の中に於て、彼は我に対して如何に勧むるとも、我は絶対に服従することを得ずと、云ふが如き言葉を使用し居るにてはあらざるか。是等の言葉は絶対にあらず。即ち不変の意味を指すにて絶対の意味には適せざるなり。不変を絶対と思ふも無理ならねど、諸子の考ふる不変は不変にあらず。其不変には限度を有す。限度を有する不変は限度の絶対にして、其は真の絶対にはあらざるなり。諸子の考ふる絶対と云ふ言葉は、余りに広く各部にわたって用い居るが故に、複雑となりて却て絶対を破壊せしめて絶対ならざる絶対に化せしめ居ること多し。故にテツシンが語る絶対と諸子の思ふ絶対とには相似て等しからざる点少なからず。されば是をくはしく説明なしをかずば、絶対と云ふ事の意味を曲解して、却て迷ひを深くするやも計られずと思ふが故に、今少しこの絶対論に対して語りをくの必要に迫られたれば暫時耳を傾けよ。
 大凡宇宙間には絶対と云ふ言葉は成立せざるなり。真の絶対とは全宇宙の極致に帰らずば絶対とは云ひ難し。時間を有する絶対、空間を有する絶対、限度を有する絶対は、暫時の絶対にして、是は不自然絶対なり。されど正しき自然を知り得て、その自然に帰りてはじめて、絶対の意味を悟ることを得るなり。正しき自然は即ち絶対を知らしむ。故に限度絶対は自然にして、限度を有せざる絶対は大自然絶対となるなり。諸子は静止を絶対と考ふるならん。もし静止を絶対と思ふならば、動行は絶対にあらずとの意味に化せられるにてはあらざるか。宇宙全宇宙は時間空間を有せざる動にして、静にあらず。静を絶対とし、動を相対として、考ふるならば全宇宙には、絶対と云ふ言葉は成立せざるなり。

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