伊東慈音の死  昭和二八年一二月一八日午前五時  「宗教者になるなかれ。一宗一派を作れば一宗に囚わる。万宗を作りて万宗の頭となることは難し。又宗教を作りて一宗一派に偏れば,是また多くを導く事を得られざるは当然なるべし。唯,我等の教ゆる事を信じて,其のことのみを後輩者に伝うるは宗教者にあらず。此の点をよくよく心せよ」と  覚者慈音はひっそりとこの地球を離れた   衛藤慈声

 

序文


                     衛籐慈声著


 昭和二八年一二月一八日午前五時覚者慈音はひっそりとこの地球を離れた。
少数の血族に見送られて彼は使命を全うするために死臭を発する肉体に其の三年余の歳月を此の地上に止め置かれていた。然して使命を全うした現在彼は貴尊方に迎えられて昇天したのであった。人として全き成長を遂げた覚者として,個性を完成した人として天界に迎え入れられたのである。


「形(肉体)を有する間に無形の魂を確かに見極る修行こそ肝要なるべし。古来よりその理をたしかに語りたる指導者は少なかりし為,世は却って混乱し迷いを深くするのみにて無形(魂)のものの余りに広大無辺にして其の理を究むることの難かりしためなり。此のことを憂いたる教主は無智の慈音を通じて世人に其の理を深く認識せしめんと計られしを諸子は喜悦として深く研究せられんことを」と未知日記(絶対界参照)テツシン貴尊は記された。また教主は仰せなされた。
「宗教者になるなかれ。一宗一派を作れば一宗に囚わる。万宗を作りて万宗の頭となることは難し。又宗教を作りて一宗一派に偏れば,是また多くを導く事を得られざるは当然なるべし。唯,我等の教ゆる事を信じて,其のことのみを後輩者に伝うるは宗教者にあらず。此の点をよくよく心せよ。」と
又「宗教者は己の力をもって世を導かんとす。我等は大自然の力によつて大なる覚りを得よと教ゆるのみ。相似て等しからず。宗教者は教祖の徳を誇大にせんと努力し,我等は大自然を其のままに汝等のものになさんとさとすに止まる。大自然に順応して始めて真の神を知る。即ち全宇宙祖を汝等にしらしめんとするに他ならずと知るべし。
心より魂,魂より霊へと大自然の道を正しく歩みおらば,全宇宙祖は汝等のまなこに映ず。全宇宙祖こそは即ち我等が尊ぶ神なりと知るべし。是は己より求めんとして得らるるものにあらず。大自然の力が大自然に働くによってのみ解し得らるるものと知るべし。」


 教主は既成宗教と未知日記に説かれたる真理との相違区別を明確に講じられて居るのである。然して,地球人が動物性を脱却して,人として成長しない限り其の人の救いは何処にもないのである。従って地上の平和はない。
著者は慈音の晩年,彼が昇天するまでの約十年余,未知日記の口述筆記にあたり,その厳しい修行の様を見聞する機会を許された者の一人である。「未知日記」が出版され人々に読まれる事となって,心に深く感ずる処ありて初心者の為にペンを執ることとしたのである。
慈音の立体像を正確に描き出すことは私如き者のよくなす処ではない。又彼の達成した実力は動物性を脱却し得ない人々の想像(相対性人智)の及ぶ処ではない。従って私の書き記すところは自然平面的となり,彼の行為,言動の単なる事実の羅列に終わる事も止むを得無いかと思うが,未知日記を精読研究して自己の魂を発見する法,是を育てる手段を発見して永遠の生命を全うせんと願う人々にとってささやかな初歩的手引きともなればと願う次第である。


昭和四十六年三月
      衛籐慈声


 教主が慈音を択びて指導しその無形の魂を発見なし是を見きわめ,その魂を育成強化して完全に半人間半動物の地球人慈音をして動物性を脱却して完全なる人として成長を遂げしめたことは,彼慈音を通じて全地球人に救いの手を伸ばされた証明である。
救いとは如何なるものか。個性を完成して動物性を脱却し,もって人としての永遠の生命を得ることである。無形の魂を見きわむることなく,是を育つることなく一生を半動物として未熟にて終わるとき,肉体死すれば其の人の魂は魂屑として棄てられる。捨てられては浮かぶ瀬はないのである。
然し在世中,慈音は教主から世人に彼の真の姿,三気一体化(心,魂,霊)して自在(天眼通,地眼通)を得た真の姿を見せることを教主は仰せなされた。
「宗教者になるなかれ。一宗一派を作れば一宗に囚わる。万宗を作りて万宗の頭となることは難し。又宗教を作りて一宗一派に偏れば,是また多くを導く事を得られざるは当然なるべし。唯,我等の教ゆる事を信じて,其のことのみを後輩者に伝うるは宗教者にあらず。此の点をよくよく心せよ」と
又「宗教者は己の力をもって世を導かんとす。我等は大自然の力によつて大なる覚りを得よと教ゆるのみ。相似て等しからず。宗教者は教祖の徳を誇大にせんと努力し,我等は大自然を其のままに汝等のものになさんとさとすに止まる。大自然に順応して始めて真の神を知る。即ち全宇宙祖を汝等にしらしめんとするに他ならずと知るべし。
心より魂,魂より霊へと大自然の道を正しく歩みおらば,全宇宙祖は汝等のまなこに映ず。全宇宙祖こそは即ち我等が尊ぶ神なりと知るべし。是は己より求めんとして得らるるものにあらず。大自然の力が大自然に働くによってのみ解し得らるるものと知るべし」と


教主は既成宗教と未知日記に説かれたる真理との相違区別を明確に講じられて居るのである。然して,地球人が動物性を脱却して,人として成長しない限り其の人の救いは何処にもないのである。従って地上の平和はない。
著者は慈音の晩年,彼が昇天するまでの約十年余,未知日記の口述筆記にあたり,その厳しい修行の様を見聞する機会を許された者の一人である。「未知日記」が出版され人々に読まれる事となって,心に深く感ずる処ありて初心者の為にペンを執ることとしたのである。
慈音の立体像を正確に描き出すことは私如き者のよくなす処ではない。又彼の達成した実力は動物性を脱却し得ない人々の想像(相対性人智)の及ぶ処ではない。従って私の書き記すところは自然平面的となり,彼の行為,言動の単なる事実の羅列に終わる事も止むを得無いかと思うが,未知日記を精読研究して自己の魂を発見する法,是を育てる手段を発見して永遠の生命を全うせんと願う人々にとってささやかな初歩的手引きともなればと願う次第である。

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