父祖の足跡 5

 


父の兵隊時代



シジミ売りの幼年時代
一緒に紙飛行機を作った弟



  父は四十歳ごろから短歌の会と俳句の会に入っていろいろな詩を書いていた。それを一冊の画集に何年もかけて書き留めていた。或日、両親がそこらじゅう時間を掛けて何かを探していた。暫く探した後に、母親が僕達に「お父ちゃんの画集を知らないか」と真剣に聞く。僕と弟は知っていた。何日か前、二人でその画集の紙を一枚残らず剥がして紙飛行機を作り、大屋根に上りそこから道路に向けて飛ばして遊んだことを白状した。両親の顔色が変わったのがわかった。ぶたれる前に「ごめんなさい」と二人で謝った。いや、僕等が謝る前に母が介添えして、「早く、二人ともお謝り !」と中に入って仲介し呉れたのだった。父は茫然自失の状態であった。しかし、父は殴らなかった。でもこの齢になって父親の悔しさがよく分る。長年の間書き留めてきた大事なものが一気に霧散してしまうのだから、きっと大金を何処かで無くしたような気持ちだったに違いない。その日は風があって、厚紙だったのでよく紙飛行機は飛んだことを覚えている。僕が破いた紙に簡単な俳句が認めてあった。その一句だけを今でも不思議と覚えている。それは「誰が失せし 赤き手袋 雪染めて」その他の句と文集はすべてなくなった。今は何処にも残ってない。若い頃には父は下手な小説を書いて文学雑誌に応募したこともあったらしい。それ程若い頃から文学にひとしお熱情を傾けてきた。又三月の真冬の午後、父は僕達三兄弟を勝山橋のたもとに連れ出して、父は真白な雪原の上に棒で文字を大きく書いた。書いた文字は「春も間近かに、いざ、〇〇〇」。この〇〇〇と云ふのは家の屋号だ。一文字の大きさは一辺が一メートル位の大きさだ。そこをなぞるように河原の川べりからバケツで幾杯も兄弟で砂を運び入れ、僕達に文字を書かせた。父は橋の欄干の中央に戻り、僕達に向かって大きな声で指図する。僕達は何回も川沿いを往復した。今だったらカメラに収めておけばよい思い出になったろうに。今とは違って当時は車をもつ人も少なく殆どの人は長い橋を渡って、京福電車で通勤する人が多かった。作業中かなり多くの人がそれを見て通った。こんな寒い日に雪の上でこの親子は何を酔狂なことをしているのかと不審がって歩いて行ったと思う。又こんなこともあった。弁天の櫻まつりには其々の店々が広告用の行灯を建てる。普通はお買い物は〇〇〇屋へと書くのが普通、だが父は自分の店の名を一切出さずして、その行灯に一筆次の言葉を記した。「花は桜木、人は武士、〇〇〇〇〇」あといくつか心に残る言葉をあったのだが、僕は失念してしまった。だが人と違う軽妙洒脱な言葉の数々を父は多用した。子供ながらそれに強く感心したことを覚えている。俳句、短歌の道を憧憬しただけのことはある。つくづく父の歌集をなくしたことが今は悔やまれる。
つい先日、兄からこんな話を聞いた。それは父が三十代頃の話だ。夜遅く、ひげむじゃの大男が店先に現れ、次の様に言ったそうだ。「俺は朝鮮の無宿もんだ。いますぐ金が欲しい」とたどたどしい日本語でお袋に詰め寄り恫喝した。母はその異様な男に震え上がり、慌てて内に入り父に大声で助けを求めた。父は店先に出て、その男に「馬鹿者」と一括し、背伸びしてその男の顔面を数発殴り飛ばした。すると男は意表を突かれ、全く戦意喪失してとるものもなく慌てて疾走していった。その様を見て幼児であった兄と母は漸し呆然とその場に立ちすくんでいたという。当時の軍隊帰りの日本兵はつくづく勇猛果敢であったと思う。未知日記にも死後の霊界に於いても日本兵と外国兵の際立つ戦闘状態の差異を事細かに描写してあるところがあった。戦意喪失して逃げまくる外国兵に対し死んでも毅然と立ち向かう日本兵の姿だ。
 何故、今「父祖の足跡」に拘るのかと云うと、父の最晩年、余命幾ばくもないとわかった父が私達子供に伝えたいことをあった筈、それを今僕なりに紐解いて孫子に伝えるのが僕の務めと分かったからに他ならない。名もなき市井の民の、声なき無声の声をこのまま風化させ朽ちさせてはいけない。父祖の生きた証、その一片をも次なる家族に残し託す事が僕に与えられた責務であり、父との約束を履行することになるからに他ならないからだ。いわば無名戦士達の墓標を弔う感情なのかもしれない。国を思い、家族の安寧無事を祈り、如何なる人も死ぬ間際には今生で果たせ得なかった無念の思いがある。その無念の思いの丈を次の家族にバトンタッチすることが今を生きるものの務めなのかもしれない。僕はこの「父祖の足跡」の文集にあるだけの家族の思い出の写真を張り付けて、一冊の文集に仕立て上げ、それを先祖に対しての慰霊にしたいと思っている。桑の葉を一心に喰らい、あの命の短い蚕でさえ、錦を残すというのに引き換えて、私達は唯、喰い、吞み、眠るだけの所行に終わっている。天上界より見れば、蚕にも劣り、天理の道理に悖る生活を続けていることは明らかだ。
 上部に映るしじみ売りの少年の写真をご覧あれ。帽子の翼のへりは擦り切れ、着ている学生服はツンツルテン、しかも袖も擦り切れて、如何にも貧者然としたものである。おそらく撮影の為に父は一張羅を羽織ってきたのだろうが、尻、膝はおそらく破れ大きなつぎはぎを当てているのだろう。家にはこの一枚だけが父の少年期のものとして残されていた。その下の写真は写真館で僕達兄弟が仲良く着ているスーツ姿の写真。これはたぶん写真館の貸し出し商品だろう。僕も子供の時は、両膝に細長く大きな当て布を張ったズボンを毎日はいて学校に通った。僕は祖母のマサにもう少し小さな継ぎ当てをするように頼んだが全く効果なし。当時僕のような大きなツギは誰もしていなかったことは確かだ。僕の場合はいつも五歳年上の兄貴の払い下げ、上着、ズボンだけじゃなくスキー板から水筒、リュックに至る諸々のものはいつも兄のお下がりだった。親父もそのことを知ってか知らずかいつもそのことを等閑に附していた。それも親父独特の教育だったのか、そのためか、いまも着るものにはとんと関心はない。今テレビで有名人のファミリーヒストリィが放映されることがあるが、僕の考えているものは一介の貧者の無名のそれだ。
さて果たしてどんなものができあがるか、それをいまから愉しみにしている。

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