父祖の足跡 6



右下が母




  これは亡くなった母から聞いたことだが、今から五十年ほど前、商売がある時期大変な時を迎えていた。詳しい話はわからないが、或期限までに纏まったお金を調達しなければ、店を廃業しなければならない事態が招来したのだ。母は困り果てて坂井哲子先生の師匠さんに当たられる古山先生に相談した。不思議なことにそれからというもの主力商品が俄然飛ぶように売れだし、仕入をしても、それらが瞬く間に売れていったそうだ。それでどうにか纏まった資金を手に入れて事なきを得たことを母から後年聞いた。今となってはその古山先生が如何なる法術を用いたのか知る術はない。当の母も当時の事を振り返り驚きの声で僕達に語ったものだ。人通力の不可知さというものを今改めて認識する次第。その古山先生の肖像画が今も家に飾ってある。母が生きて居れば、その人の事をもっともっと詳しく聞く事ができるのだが、母の世代の信者の方はすべてこの世を去ってしまっている。書籍もなし、おまけにネットで調べても何の手がかりもつかめない。唯一つ、その先生から母が頂いた祈りの栞が今も神だなに入っていた。その栞の内容は次の通り。此の言葉は人智よりうまれたものではなく、間違いなく古山先生が神霊より授けられたものに相違ない。





神拝の



清めの詞(祓詞に代へて)
静けき時を御前にささげまつりて、日々に賜はる深きめぐみを謝し奉る。
禊(みそぎ)なすことを識るも霊を清むることをしらず、うかうかと過ごし来にける此の身、
いま御前に平伏し願(ね)ぎまつるなり。
初めに神、天地(あまつち)を造り給ひ、光と萬(よろず)の物を賜ふも知らで、愚痴と気儘は言はずもがな、罪や穢れに埋もれし者をも捨てまさで、育み賜はりし忝なさ。
神よ許させ給へ、朝(あした)に祈り善きことを為さで、願はざる悪に捉はれ夕(ゆうべ)に詫びまつる愚かさ、今悔ひ改めて清く正しく仕え奉る。此の身を護り給へる霊(たま)よ、我と共に在りて神の霊言(たまごと)に應(こた)へさせ給へ。
吾等、心行一致して神旨(みむね)を拝したてまつるなり。



萬の物を神に享け、 示現示教(じげんじきょう)を旨として
神の證(あか)しをなすべきに、為さで神心(みこころ)痛むなり。
良き範(かた)とこそ成るべきも、何時しか忘れ過ごし来ぬ。
己が心を本(もと)として、他人(ひと)の栄達嫉(そね)みては
智慧と力のあらぬ身を、あるかの如く粧(よそ)ひきぬ
不平不満の生活(たつき)ごと、寝起きに小言重ねつつ
私欲の為の争ひや、労を厭ひてかげ日なた
他人(ひと)の悪口蔭口と、飽かぬ貪り数しれず
人の踏むべき道をさへ、踏まで来にける愚(おろか)しさ
縋り求めしもの皆や、救ひの聲も顧みず
神を神とも思はざる、心行ひ憂(う)たてさを
今悔ひ更に改めて、朋友同胞(ともはらから)と扶け合ひ
困苦の重荷背おひてぞ、為すべき行(わざ)に務(いそし)まむ
任務(つとめ)を果し欣(よろこび)て神に、帰へらむ道をふみ
生命(いき)ある限り神仕へ、死しては霊(たま)の群れの友
尊き神の御議(みはか)りに、生(あ)れたる幸(さち)も思はずて
日毎夜毎に愚痴多く、兎角(とかく)我身を先にたて
不知不識(しらずしらず)に犯し来し、罪や穢れを赦しませ
弛む心の出でもせば、笞(しもと)を加へたまへかし
みおやの神に應ふべき、力を常に涵養(やしな)ひて
朝(あした)に享けし身を謝しぬ、夕(ゆうべ)に祈り又も謝す
信もて神を呼びまつる、様を真実(まこと)とみそなはせ
彌尊(いやとう)とやの神ごとの、御業(みわざ)に仕へ奉る
嗚呼神光(みひかり)に神力(みちから)に、導き給へまもりませ
生み賜はりし賤(しず)の子に、仕へ果させ給へかし


(神拝の終りに称ふる詞)


信燃ゆるところ、心行(しんぎょう)花と咲き
自づ世をうるほさん
一喝(いっかつ)の息吹、萬霊の救ひなれば
吾等欣(よろこ)びて、之を行はん
 


上記の文言を母は二十歳の頃から毎日神棚の前で称え、諳んじていた。嫁に来た妻も母の真似をして、今もそれをすっかり諳んじることができる。この薄い栞の紙は今は年季も入ってボロボロになっている。僕はダメで途中直ぐにつかへてしまう。すると妻は僕にすぐ助け舟を出す始末。男と女の信力の違いかもしれない。どの宗派をみても、男よりも女の信に対する思いは深いようだ。紙をこよると一本の強靭な紐になる。信念合体すればそこにあらたに通力が生れる。新興宗教の女行者がその宗教の看板になる理もそこにある。古くは卑弥呼、マリヤ、近年では立正佼成会の妙佼、辯天宗の大森智弁、天照皇大神宮教の北村サヨ、霊友会の小谷喜美そして坂井先生もその一人。調べたらまだまだいるんだろうな。

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