父祖の足跡 4

 
 私の父母 出征前に映した写真



 父は母と結婚して暫くして、満洲へ出征した。五年間の兵役を済ませて無事に帰還することができた。この地を出立する時には、父は自らの髪を切り、それを母に差し出した。自分の遺骨さへ帰らぬ場合を想定したのだろう。その時既に母は一人の子供を身ごもっていた。戦地から帰ってきた父は初めて見る我子に向かい、「坊、はょう、こっち来いや」とを手を差し伸べる。僕の兄は唐突に現われた髭むじゃの男に一瞬恐怖を覚え、母の背中に隠れて中々出てこなかったと云ふ。戦後の帰還兵が多くなった時、こんな風景が日本のあちこちでみられたんだろうな。戦後僕たちは第一次べービブーマ世代として生を享けた。その必然として、その後数々の試練、試験、就職、結婚、その他数多に渉って多くの艱難を余儀なくされてきた。
父は軍隊帰りということもあって当初は気が荒くなっていた。その性で長男はよくぶたれることがあったそうだ。その点お前達残り三兄弟は幸せだったと母はいつも僕達に云っていた。我家だけではなく、日本中の多くの家庭でも子供に対する教育は猛々しいものがあった。その分兄は長じてからも、私達兄弟の中で一番祖父に可愛がられたと母はいつも言っていた。
僕達の住む所は都市部でなく、どちらかといえば山村に近かった為、空襲は免れ大きな被害はでなかった。唯、都市部の福井の空襲は凄まじく、夜は当地からも薄赤く燃えているのが分かったそうだ。
 母は元吉とマサとの間に生れた唯一人の子供だった。戸籍上は母は私生児扱いとなっていた。両人は共に再婚同志であって、元吉は年齢もかなりマサさんより上で、すでに五十歳の坂を超えていた。晩年にできた一人娘のため、娘をひどく溺愛寵愛してどこに行くにもよく連れて行ったそうだ。
 若い頃から元吉さんは信仰のことを考えていて、何かの有益な話があれば色々なところを訪ね歩き回ったと云ふ。昨日はこちらの門、今日はあちらの門と云うぐらいに彼方此方の教えを訪ね廻った人でした。何処か往く時にはいつも娘を一緒に連れていったそうです。結果、神道系の古山何某の教えが気に入り、娘と共にそこに入信した訳です。その方はもとはクリスチャンだったそうですが、あるところで長年修行されて日本神道を信奉するようになられました。母から聞いたところによれば凄い霊能を持たれた方であったと聞いています。その古山何某のお弟子さんが、私の畏敬するあの坂井哲子先生でした。私にとってこの異端の宗教遍歴者、別の呼称、「またのぞきの元吉さんと」と人にまで揶揄嘲笑された彼のお蔭で、今私は坂井哲子先生を介して未知日記の書と出会うことができました。間接的にこの縁を取り持ってくれた元吉さんと母には本当に感謝の気持ち一杯です。私が死んで彼方の世で元吉翁と再会できたなら、今生の疑問もいっぺんに氷解することでしょう。「嗚呼、そうだつたのか」と一気に因果の道理歴然たることを合点することになると思います。是は元吉翁との関係に留まらず、父母兄弟その他多くの人達との関係に於いても亦然りだと思います。何故今生、夫婦の縁を持ったのか、何故親子兄弟としての縁を契ったのか、その他諸々の縁の絆のことがわかる時が来るのかもしれません。見えない天の複雑なる縁線、その配剤がいつかは天空から俯瞰して明晰になる時がくるのかもしれません。
 私の檀家の先々代の住職がこの祖父を子供の頃からよく見知っていて、この祖父が町内の三羽烏と云うほど好男子であつたことを、法事の際、家族に話したそうだ。祖父は生まれつき器用な人で、知り合いの職人宅に幾度か上がり込み、雑談をしながらその精妙なる手の動き、そのはたらきを見て、自らそ の技量を盗見して修得したそうだ。のこぎりの目立て、時計の修繕などを覚え、小さな店を開業したと母から聞いた。子供の頃、祖父の彫った招き猫の彫刻を私も見たことがあった。その名残りとして今も高さ百五十センチくらいの柱時計が店に飾ってある。何年か前に時計屋に修繕に出したところ、時計は見事に復活した。今は亡き祖父の形見として、家の柱に供えつけてある。この器用な元吉翁の別称は「器用貧乏」と人からも言われていた。そういえば祖父が模写した観音像も遠い昔、見たことを覚えている。
 昔、父が僕に母の学友の写真を見せて、「これがお前の本当のおっかあさんの写真」だと差し出されたことを覚えている。その女性はすごく不細工な女だったことを子供ながらおぼえている。その写真と一緒に比島の駅内に放置されておったと云ふ。その時、僕はすごく泣いたことを父から聞いた。


 今日、母の遺影を父の遺影の横に据えた。そして葬儀社が用意した祭壇のより大きな遺影も床の間においた。ここはこれから私と母との無言の語らいの場になる。困ったときはいろいろ相談もするだろう。嬉しかった時も逐一母に報告するに違いない。
上部に掲げた写真は私が結婚したとき、父と並んで母も同様に自宅で撮影したものだ。母の年齢は当時51才、まだあの頃の片鱗が残っている。私がいま七十一才だから二十歳も現在の私よりも若いわけだ。親と子の微妙な逆転現象をみる。
人は死ぬとそれぞれの天界へゆくわけだが、暫定的に如意界なるところに一時、魂を留め置かれる。そしてそこで変貌が始まる。戻りたい頃の自分にゆっくりと変身してゆくのだ。しかし今はまだ母は真に覚醒してない。まだ眠った状態にあると思う。おそらくは今は自分の名前すら覚えていないに違いない。如意界それは文字通り、意の如く、自分の思う通りの世界を自分みずから作りあげてしまう思念の世界だ。お花畑、緑の高原。果てしなき原野、渺々たる砂漠など何でも自らの思いで作り上げてしまう世界だ。
仏教信者だったら大きな伽藍、池に咲く色とりどりの蓮の花、そばに林立する五重塔、そして仏僧達の読経の声。そういった世界が展開するに違いない。
しかし、この如意界なる世界は真の極楽世界ではない。やがてその人の夢が覚めると同時にその脆弱な世界はもろくも崩壊してゆくのだ。決して安住の最終の場所ではない。


 母が死んで明日で丁度、2週間目になる。その亡くなる1週間前に僕は近くのス-パ-で、あの厳戒の辞の説明文を100部コピ-した。一部が13枚綴りですから合計1300枚にもなりました。それを母の葬儀に来られる方に香典返しと一緒に付けてさしあげようとおもったのです。途中、コピ-機のインクはなくなり、また紙も不足する事態となり、店員さんには幾度も迷惑をかけてしまいました。
さて、それらを持ち帰り我が家で大仕事、娘と一緒に用紙を順番に並べ直し、一部づつ仕上げていきました。結構な時間がかかりました。
でも結局、それを葬儀には使いませんでした。というのは殆ど誰にも読まれずに古新聞の束に入れられてしまうことに気づいたからです。そんな勿体ないことはありません。
それから2日してmuragonでブログ立ち上げたことはとても正解でした。100部どころか無制限に必要とされる方に厳戒の辞の言葉が行き届くのですから有り難いことです。
それとこのブログを立ち上げることによってgoogleやyahooに教主寛大をはじめ、セイキョウ貴尊、円海大師等の名前が出てくるのですからより驚きです。天使の方々のお名前がネットに流れるのは史上初めてです。


 僕は死を待つ苦しげな母に「おっ母さん、絶対に厳戒の辞を唱えるのを忘れるな。彼方の世界に入っても絶対に忘れるなよ」と何遍も何遍も繰り返し云った。母はうんうんと声にならぬか細い声で頷いた。たとえ母が一時、浮住界に止め置かれることがあったとしても貴尊方の救いの手は母に必ず及ぶと僕は確信している。その時に、そうだ、ブログでこの厳戒の辞を全国へ発信しようと思い、なんとかブログを作り上げることができた。今日まで何一つとして善行らしきものはしてこなかった。このブログを見てくださる人の数人でもいい。その方々に少しでもお役に立てたら本望だ。貴尊方は母の死を以て僕に最後の死に場所を与えられたのだと今は思っている。一日六時間以上もパソコンの前に座り、一心不乱に此の書と対峙してきた。僕にこれほど迄の情熱がまだ残っていたとは自分でも信じられぬ位だった。体重も10キロ以上痩せた。しかし称える厳戒の辞は従前よりも力強さ増したように思っている。まさに貴尊の云われる、「信仰によって光明に浴せよ」ということだ。
 母の死に顔は安らかだった。心配していた断末魔の苦しみもなくまるで眠るが如く息絶えた。立ち会った看護師の方も立派な往生であったと僕に云った。母は天寿を全うする者の死は決して怖いものでないことを残された家族一人一人に身を以て教えて呉れた。事実、未知日記第一巻に天寿全きを得たる人より離るる時は、苦まざるが故に、その光濁りくもりなく赫々ととして去り行くなりと記されている。父の場合も何の苦しみもなく眠るが如く、この世を去っていった。
そして母のとりなす縁でもってこの未知日記の書と出会えたことをいまは深く感謝している。
享年九十五歳でした。
イエスの言葉に、
「一粒の麦地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」
母の死はまさしく僕にとっては一粒の麦であった。

×

非ログインユーザーとして返信する