父祖の足跡 3


母十七歳の頃




父親と母の出征前の記念写真

晩年の父と母



 父と母の間に四人の男の子が授かった。当時はどこの家も産婆を介して、すべて自宅で分娩した。狭い家屋に八人が住み、ひしめき合っていた。祖父、祖母、両親、幼い子供が四人、よくぞあんな狭い所に住んでいたもんだ。当時祖父は八十を超えていたと思う。中気を患い、いつも布団の中で寝ていたことを覚えている。年長の兄は別にして、年違いの兄弟三人が物指をもってチャンバラごっこをして祖父の周りで大声を張り上げ飛びまわる。病気で呻吟している祖父の頭のまわりで大声を出して遊ぶ。さぞかし祖父にとってこれはまさに地獄の日々であったろう。おまけに隣の家はパチンコ店、チンジャラジャラ、チンジャラジャラ、一日中騒音狂騒曲が鳴りっぱなしの状態だ。このパチンコ店は実は父が経営していた。一方、母は隣の店でわづかの洋品と靴を商っていた。パチンコの店員さんは五人程いたと思う。店が終わればパチンコ玉の洗浄。大きな味噌桶の中に水をはり、玉をごしごし洗い、ドンゴロスのような布を広げ、大人二人掛かりで汚れと水気を取る。作業が終わるのはいつも夜の十時過ぎ。そこで夜食に全員で隣の店の中華を食べる。私達子供もお相伴にあずかる。そこは当時、当地で一番うまい店だった。俳優の宇野重吉が来店して一気に有名になった店だ。父は当時大阪にもパチンコ店を作り、大忙しの日々を送っていた。後年、母はいつも口癖のように「父ちゃんはよう働いてくれた」と感謝の言葉を洩らしていた。パチンコ店の店の棚には幾種類もの菓子、かんづめ、食品などがびっしりと並んでいたので少しもお菓子には不自由したことがなかった。まるで小さな駄菓子屋さんだ。店名はナンバーワン。日中店内が閑散としている時は、祖母のマサが四男坊を背に負って、店内でさくらをやっていた。夏場になると店の真ん中に大きな氷柱を立て、冷房していた。勿論店のドアは終始あけぱなしの状態。
家の前が銭湯をやっていて、風呂を焚く燃料として定期的におがくずが大量に其家の倉庫に運ばれてきた。或日、僕等三兄弟は店の前の大きな排雪溝(幅一メートル)でおがくずを流して遊んでいたら、三男坊(当時保育園)が川に落ちて流れていってしまった。僕は慌てて家の中に居る母に告げる。父は折あしく仕事に出ていていなかった。母は声を出し、近所の人に助けを求めた。すると松村のハンコ屋のオジサンが真っ暗の川の中に飛び入り、手探りで川下からごみに引っかかっていた弟を無事救い上げてくれた。ゴミにかかっていなかったら、弟は九頭竜川の本流へと流れて行ってしまうところだった。医者の手当の甲斐があって、なんとか一命を取り留めた。両親はこの恩人のお蔭で大切な宝を失わなかった。幸い弟は川に落ちた拍子すでに気絶して居て水は飲まなかったようだ。
あの頃はほゞ毎日、町の中を馬が大きな台車に積み込んだ材木を運びながらよく通ったものだ。後には転々と馬糞が転がっていた。その頃の子供の楽しみは毎日やってくる紙芝居だった。あと思い出す事は祖父の葬儀、大きな丸い木桶に祖父を何人かで担ぎ上げそっと入れる。足は座禅をして涅槃に入る禅定の構え。葬儀は車など当然なく、何人かで担ぎ上げ、三昧場(さんまいば)へとしずしずと運ぶ。先頭は坊さんが先導して、子供二人が提灯を持って、後の人々は礼装の着物をはおり、長い行列を作り、ゆっくりと歩いたことを覚えている。当時この三昧場は町のはずれにあって、中心部からおよそ二キロ圏にあった。現在の様に燃やす煙が漂っていたとしても、誰一人として苦情はでなかった。子供の頃、そこの高い煙突から黒い煙があがっていたのをよく見たもんだった。過ぎ去れば一場の夢。当時見知った大人の人はみんな死んでいってしまった。店で働いていた、其々の店員さんの顔はいまでもよく覚えている。

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