父祖の足跡 2    昔、父と母は近くの長屋に住んで居た




 本日でもって覚者慈音は更新回数が1600回を超えた。そしてアクセス回数は48000を超える事ができた。(今日現在24万)
しかしこの読者の中で真剣に厳戒の辞を称えて居られる方は如何ほど居られることか。ひょっとして指折り数えるほどか、あるいはゼロか。そうであればなんとも寂しいかぎりだ。斯くいう、私の父もこの未知日記の書とは全くの無縁で、息子の私が幾度も幾度も読んでくれるよう懇願したが一切受け付けずじまいだった。父親だけじやない、知人友人兄弟達は勿論、手あたり次第に読んでみるように薦めた。そしておまけに自分の息子、娘にも薦めたが全くの有労無益だった。仮に私が今死んで「覚者慈音」の更新をここでストップしてもこのブログは百年二百年と後世まで読み継がれる自信がある。何故ならこの書は神霊の直々の言葉の集大成だからだ。仏典、聖書を見ても「仏は斯くおおせになられた。あるいは天使はかくおっしゃったという間接話法だからだ。それは神霊の肉声ではなく、聞いた人間の主観がかなり入り混じった言葉になっている」この未知日記は神霊からの直截話法だ。神霊の方々の息遣いすら聞こえてくるようだ。貴尊方は仰っている、この書を読むにあたっては決してこの文章の「てにをは」すらも改竄するなと注意されておられる。そこには読む者の心を、いや魂を明らかにする法力が随所に埋め込まれているからだ。又この書は何世紀はおろか永劫に残る書であると各所に説かれている。そんな書物がいままでこの世にありましたか。


 父と母は幼小の頃から本当に近い、近い一つの長屋に住んでいた。父は母より一歳だけ年上で子供の頃はよく一緒に遊んだことがあったそうだ。母の方も亦同様、貧しい家であったが、父の家はそれが尋常ではなかった。その父の親父は是又凄い酒飲みで、赤貧洗うが如き極貧の生活を送り、一家は貧しさを余儀なくされていた。そんなこともあって、父の親は酒で身体を壊し若くして夭折した。父の親は若い時は人力車の車夫をやっていたそうで、若い時から酒と博打に溺れ、家族をかなり泣かせたそうだ。車夫と云えば、昔ǸHKで放送された原作、山田太一の「獅子の時代」の主人公、菅原文太が扮する平沼銑次の人力車の車夫を見て、なにやら僕は複雑な気持ちで観ていた。恋人である大原麗子が扮する「おもんちゃん」にはすっかり魅了されてしまったが、さて、仮にあの銑次の役を普通の役者が演じたなら、唯のヤクザ者だ。その車夫であった爺様の写真が今も我家の床の間に飾ってある。それが僕の親父と顔が全くの生き写し、多分彼方の世から、先祖は後顧を憂いて色々と陰ながら親父を指導監督されていたのだろう。父もあの番組がすっかり気に入ってビデオを何度も繰り返して見ていた。あの車夫の銑次の姿を父の親父のありし日の姿と、重ねながら深い感慨を以て観ていたに違いない。祖々父にまつわる話が今一つある。彼が若き時、何処かの大きな店で番頭をしておったそうだ。月末になれば請求書の一覧を一巻の巻物に筆で書き残す仕事があって、縷々書き綴った後に最後の巻末に締めて幾らといつも書いたことがあったそうだ。彼は一人一人の顧客の名前と金額を記しながら算盤を使わず、しめて合計幾らと暗算する特技をもっていたことを父は僕等に得意げに語った。今仮に父が生きて居たなら、大酒飲みの話の外に、もっと優れた技とか挿話の数々をも面白く話して呉れたろうに。この祖々父の酒飲みのDNAは先ず父が継承し、更に私達四兄弟もそれを稀釈化してそれを受け継いだ。中でも特に強く受け継いだのは末弟だった。そのことは又後日、折あらば、記すかもしれない。


 ある日、父が親戚の家へ用事で行った折に、そこの親戚の者から漬物を漬けた残り汁を持つて帰るように言われたそうな。それを持ち帰った母親は心から激怒した。貧乏人と思って親戚までが私達を馬鹿にしている。母親は台所の片隅でしばらく泣いていたそうだ。父は母の泣いている姿をじっと見ていた。父が尋常小学校の低学年の頃、家には米を買う金がなくて毎日おからの弁当を学校に持って行ったそうだ。すると同級生から意地悪されて、机の上にそれを広げられていたことがあった。それからというものは、父は校庭で一人で昼食をとる生活が続いた。私が小学生の頃にも貧乏な子供はクラスに一人か二人はいたものだ。父はその子の給食費を先生に預けて長年支援していた。その子が成人して父に感謝の意を呈するために我家を訪れた。そこで初めて父の善行を知ることになった。その時は心底父を誇らしく思った。今これを書きながら何度も私は嗚咽している。父は低学年の頃、母子家庭の厳しい家計を助ける為、シジミ売りをやり町を一人で歩き廻ったことがあるそうだ。「シジミ、シジミは如何ですか~」と声を出し一軒一軒訪ねたということを、父から聞いたことがあった。いまその幼き少年の苦衷を察しても余りあるものがある。
「父のなにくそ、負けてたまるか」という反骨精神はこの時の母親の涙にある。それが原動力となって爾後の人生の幾多の艱難辛苦を克服したのだと考える。父は深夜、独学して自らを奮いたたせ、生活の安定の基礎をつくりあげた。母は後年、お父ちゃんは本当に皆のために良く働いたと事ある毎に息子たちに口伝した。貧しい中、自らを犠牲にして、私達兄弟四人を四年生大学に送り込んでくれた。本当に大変なことだったろうと思うと真実胸が詰まる。私には到底父の真似はできない。

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