覚者慈音1666      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1666   因果論最終講
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十八    無言詞界にかへれ 因果論最終講    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・06


 慈音が質問、斯くあらんと思ひしが故、我、宇宙は摩擦ならざるところなしとあらがじめ語りをきたり。もとより全宇宙の根本は、無始終霊子の存在より構成せられたるものなれば、摩擦なきところは何処を求むるとも得難し。わが語りし摩擦なき処に到れとは、如何なる意味を現はしをるやに留意せよ。汝等が思ふ如き摩擦と、我等が語る意味とには隔り多し。盤石不動の処に到達せざれば、その大意を知ること難し。もとより盤石不動の処と雖も摩擦なくしては存在することあたはず。されどその摩擦の力は、盤石不動にして動ずるが如く又動ぜざる如き姿なるによって、この処を無の境地と説きたるなり。されば無の境地とは盤石不動の居を指したりと知らば可なり。動ずるが如く動ぜざるが如きを、無の境地と悟らば、自づと摩擦の程度の相違は、如何なるかを推測することも至難にはあらざる道理あらん。この境涯に至るを無言詞界と仮称しをくなり。世人に此処を知らしめんととして、如何に筆舌を巧みにすとも、徹することを得ざるが故なり。世人の現今住み居る地球を離れて、今一段進みたるところに至らば摩擦は少なし。摩擦の少なきところを択びて自然に進むにあらざれば、大極の盤石不動の処には到達することを得ざる故なり。世人の住み居る世界より下り行けば、摩擦は次第に強くなりて激動は益々加はると知らば、下方は激動し、上方は静かなりとの意味も従ってうなずかるべし。我下方と云ひ上方と云ふ言葉を用いをれど、其は便宜上に汝等の世界の言葉の不自由なるが故に、上下の区別を以てせずば解し難きを知るによってなり。されど我の語る上下とは汝等が考ふる如き、高低の意味にあらずと承知せられたし。とにかく一方に走らば激動となり、又一方におちつき行かば静となるの意味として解してよし。とにかく激動の甚だしき方向に向はず、安静なる方向に進めよと云ふことなりと知るべし。とにかく盤石不動の世界に至らずば、常に動揺して往来のなやみ多し。不去不来の境地とは即ち盤石不動の世界を云ふなり。往きては帰り、帰りては往くは是盤石不動にあらず。永久不変にも亦あらざるべし。果して斯るところのありやなきやは世人の思慮にまかすべし。真理を求めて研究すれば、習はずとも学ばずとも自づと道理の原因さへ明るくせばたしかめらるることは、科学上よりも認識することは難きにはあらざるべし。宜しくこの理を追求して真理を明らかにするは、即ち世人の智慧の増大によってのみ得らるるならんと、我は語りてこの後の事柄は世人の意志にまかすべし。無言詞界にかへれよと云ふことは、盤石不動の世界に到りて永住せよと教ゆる他何等他意なし。此一言を最後としてこの書を閉づべし。因果の道理は先づかくの如し。千言万言句言葉をつらねて紙面を汚すとも徹せざれば用をなさず。故に世人は是以上は智慧の増大を工夫して、其によって天界の広き高きを見定めなば、自づと通力は得られん。斯くてこそ正しき天眼地眼の眼は明らかとならんこと疑ふこと勿れ。
 附言
 我、世人に披露なしをきたるセイキョウ貴尊が「時速十八万里」と云ふ教へをなし給ふと語りをきたり。現在慈音は第七階の行を終へて八階の行中に在り。このつとめを果す迄はセイキョウ貴尊の出現はあらざるなり。よって貴尊が出現は慈音のつとめの終る迄は難きが故と承知せられたし。日ならず講は開らかるると我は承知す。よって予め世人に告げをきて我は去るべし。
        自昭和二十四年四月十三日  至同年六月七日  

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