覚者慈音1665      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1665
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十七    すべては空の摩擦なり    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・06


 貴尊が仰せられし如く、汝等神を知らずとも神を作りては如何と仰せられしはここなり。人は何かの目標なくんば歩みを進むるものにあらず。知らざる神、なしと思ふ神をありと思はば、其は一つの目標となる。その目標に対して心を止め居らば、所謂精神統一となりて雑念は遠ざかる。さりながらその目標を失はば又もや雑念は広くなることも察せらるるにてはあらざるか。恰も海を渡るに船を以てして、その船の方向を東西南北何れかに定めて、其に対して羅針盤を用いて進まば、目標の地点に達すると同様にて、もし方向を定めず羅針盤を用いずして、大海を右往左往せば空しく迷ひて、行く処は明らかとはならざる道理を考へなば、自づと理解することを得ん。
 大海の波は即ち摩擦にして、其は雑念に相当すと思はば可なり。大海の波を如何に静止せしめんとすとも是は難し。故に是を静止せしめんとせず、一つの方向を定めて羅針盤によって其を乗り切らば、雑念の波は如何に高くとも乗り切りて、目的は達せらるる道理より考察すれば、拝みするは一つの法にして所謂精神統一の、術なりと思はば、拝みと云ふ法力の勝れたることは、恰も羅針盤によって方向を定むると同様の結果の結果なりと悟ることを得ん。故に拝みせよと云ふは、羅針盤に注意して傍目もせずにすすめよと云ふことに他ならず。仏教者が仏前に経を称へて勤行するを考慮し見よ。釈迦が教へし経を仏に手向けて其は何になることぞ。謂はば釈迦の教へを、釈迦に返へすとも同様のことをなし居るにてはあらざるか。然るにその功徳によって己解脱することを得ると云ふは、即ち教へを我心に合はしめて其によって精神統一を計り、一路を迷はず歩みを運ぶの法にてはあらざるかに、思ひを致さば法と云ふは何なるかをも察することを得ん。念仏も拝みなり。
 例へば南無阿弥陀仏と称るるもあれば、なまんだと云ふもあり。唯だぶだぶと称へ居るもあるならん。されど正しきは南無阿弥陀仏と云ふにあらざれば通ぜざるべし。然るに種々様々の昌法をなしても法は通ずと云ふも、念仏と云ふ拝みによって精神統一を計り居るにすぎず。又こだま会に於て慈音が語りし老婆が、「大麦小麦二升五合」と称へて、病人を治癒せしめたりと云ふも、是精神統一の力に他ならず。称へし言葉の有無に何等関係あらずして、念力の一に帰すれば斯くも大なるはたらきをなすとの意味なり。宜しくこの意を察して修養修行の道を明らかにせよ。
 一念をこらすと云ふは、目標を定め其に対して羅針盤をそなへて大海を渡ると同様にて、他に術のあるべきにあらず。兎やせん角やせんと迷ふは、摩擦の法をあやまつによって、磨くことを知らざるが故なり。例へば如何なるものと雖も徐々に磨き居らば、その磨きたる処は浄化され行く如く、全部にわたりて磨きをなさばそのものの清となる道理を考へなば、法とはむづかしきものにあらず。兎やせん角やせんと迷ふは、手を束ねて磨きをなさず考へ居るに他ならず。考へ居りてはそのものに対して何等変化を与ふるものにあらず。故に考へんよりは直ちに着手せば摩擦の力はたらく。法も摩擦なるが故なり。世人は法とは特殊の如く考ゆるはあやまりなり。法も摩擦なり。引力圧力因縁の法則は摩擦にはじまり、摩擦にて実を結び摩擦によって縁はつながると知りなば、法は汝等の思慮を深くして工夫せば可ならん。仏教に云ふ仏凡一体とは、雑念を一体化して身心共に一に帰せしむれば、即ち此境涯となることを示めしたるにて、別段不思議とするにもあたらざるべし。すべては摩擦なれば、摩擦によってものは生れ、又摩擦によって形は変ずることも、此理に合はしむれば異論の余地なかるべし。我、摩擦なきところに帰らずば、目的は達したりとは云ひ難しと説きたるに対し、慈音は我に問ひて曰く、「摩擦にはじまり摩擦に終るならば、摩擦なき処とは如何なる意味か」との質問なり。故に是に対して次の講を以て詳しく説明なさん。

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