覚者慈音1664      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1664
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十七    すべては空の摩擦なり    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・06


 貴尊方が説き給ひし従来の教へに基きて、心を広くして悪き方面に雑念をはたらかせずば、その摩擦は浄化されて清念と変じて信念は深く高くなり、然して智慧は増し来るは、是即ち摩擦の力が前進なし居る故なりと知らば可ならん。ものを見て其によってものに囚はれず声を聞きて其声に囚はれずせよとは教へ給はざるなり。悪きものを見ばその眼の向け方をよき方に変へ、悪き声を聞かばその耳をよき方に変へる修行せば其にて可なり。我心清らかなれば悪きものも浄化せらる。故に心を清らかなる方向にむけ居らば正しき信は得られ、正しき念は強くはたらく。要は摩擦の程度の如何によって善悪何れにも染まり行くものなり。此理を知らば雑念あるは結構なることなりと思ふが如何 !    雑念のなき人は不便なる人なり。雑念多ければ心も広し。唯用法の如何によっては汚される恐れあるによって、雑念をはたらかすために、修養修行の必要はあるなり。摩擦の世界より摩擦のなき安全なる世界に上らんがためには、常に清浄なる心を貯へて汚れざる用心肝要なるべし。悪きを見ては善を考へ、善を見ては悪を排除して常に心を清らかに持ち居らば、其にて気素は整ひたるなり。先づ気素を清らかにして修養を広くせば、悪にも染まず、善にも偏らず浄化されたる一路を、素直に歩むことは至難にあらず。是を信と云ふ。信仰とは清らかなる道を進むにあるなり。朝夕にこやかにせよと貴尊方の教へにあるにてはあらざるか。腹立ち怒り怨み悲しむ等の心あるが故ににこやかに暮すことを得ざるなり。にこやかなるは楽き心なるべし。樂き心は信なくては生ずるものにあらず。神に感謝せよとか、霊を尊べとか云ふ教へは那辺にあるか。霊によって摩擦されて磨かれ行く汝の心は、清らかになり居るが故に、にこやかなる心に化せられその心が肉体を浄化するによって、晴々と生活を営むことを得るにてはあらざるかに思ひを廻らさば、信仰と云ふも是又摩擦によらざれば得難し。尊きものは空と空との摩擦に他ならず。因より果に至る迄すべては摩擦の他なにものもなしとさとりなば、因果の法則は何なるかも従って明らむることを得ん。因縁と雖も又然り。要は唯摩擦の用法と、摩擦の程度の如何によって現はるるものなれば、此理をよくよく認識して修養の道を歩まば、さとりは自づと開らかるる筈なり。座禅静座して強いて己が心を苦むるの要もなからん。法と云ふも他にあらず。すべては摩擦の力を用ゆるにすぎず。是さとりの秘訣にして、その用法を工夫せば、法も自づと浮び出づること疑ひなからん。因果の法とは斯くの如く因果の道理も亦かくの如し。

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