覚者慈音1663      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1663
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十七    すべては空の摩擦なり    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・06


 我師我等に教へて曰く、「宇宙全宇宙の組織はすべて空(くう)と空との摩擦によって現出したるものなり。故に人間を地に造りたるも、皆空と空との摩擦によりて組織されたるものなれば、原因より結果に至る迄其悉くがすべて空の摩擦に他ならず。汝等此心して修行せよ」と仰せられたり。信ずると云ふも摩擦なり。迷ふと云ふも亦空の摩擦に他ならず。争ふと云ふも原因は空の摩擦より生じ、然して実在の摩擦に至っては、強きは勝ち、弱気は倒る。是摩擦の結果にして原因に逆上れば、空と空との摩擦より生じたることの理由もうなずかるるならん。雑念妄念の絶えやらぬも皆摩擦のあるが故なり。故に摩擦なき処に至らばここにはじめて平和の世界は現出せらるることも推して知ることを得ん。肉体を有して生存なし居る以上、摩擦の絶えやらねば是又是非なきことならん。雑念を清除せよと教へらるるも、自然の組織は斯くの如く摩擦の世界に置れて、日々を摩擦によって生存なし居るがために生ずる現はれなれば、人力にて、是を安らかならしめんとはかるとも、及ぶべきことにあらざるは是又察せらるべし。肉体の垢ををとすも摩擦ならでは脱落するものにあらず。呼吸をなし居るも摩擦なり。眼によってものを見る、是又摩擦に他ならず。談話も摩擦なり。腹たてば怒り悲しむ等すべて摩擦に基因す。肉体の細胞悉くが摩擦によって増減変化す。かくすべてを考へ見よ。摩擦ならざるもの一つとしてあらざるべし。信仰と云ふも摩擦なり。念力と云ふも摩擦なり。感謝感激悉くみな然り。電気は摩擦よって現はる。故に摩擦の力の用法を工夫せずば、すべては自由とはならざるべし。肉体を地上にをきて生存なし居る間、雑念妄想に囚はるるは是自然にして、これを休止せよと教へて無理に圧迫する法は、是正しき法とは云ひ難し。摩擦を一時的圧迫して休止せしむるとも、永久かかることを持続なし得るものにあらず。雑念妄想の生ずるは自然の現はれにて、その分量の相違によって或は多く或は少なきあるのみにて、全く雑念妄想のなき人は、神にも仏にもあらざる以上、斯る事は成立するものにあらざるべし。俗言に「恋を知らざる人は木仏金仏石仏」と云ふを聞きたり。木仏金仏石仏は摩擦なきが故に、恋も情も知らずと云ふならん。されど我に言はしむれば是にも摩擦はありと思ふなり。何となれば木仏のにこやかなる顔を見ば、汝の心もにこやかとならん。是摩擦あるが故なり。されど木仏には魂なし。故に彼は雑念妄念はあらざるべし。是を世人は魂なきが故と思ふならん。魂は脳中になく所謂顔面に現はされ居るによって汝の心は動かざるるならん。動かざるれば即ち摩擦によって、汝の心に動揺を来し居ることを考へなば、木仏の魂は胴にあらずして、顔面に宿り居ることをあはせ知ることを得るならん。世人の雑念妄想は絶えやらぬなり。是を強いて抑圧するには及ばじ。強いて抑圧せんとせば自然苦痛を伴ふ。聖人君子たりとも雑念妄想はあるなり。是あるが故に智慧は磨かれ、信仰は得られ、念力は得られ通力となる。然るに世人は心をいたましむる妄念雑念を貯へ居るによりて為に信力念力は得られざるなり。

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