覚者慈音1662      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1662
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十六    汝のすべてを霊にゆだねよ    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・05


 信ずる力強ければ、肉体を或は心魂を霊にまかすことを知る賢者なるが故に、我等は斯る人は尊しと思ふなり。さりながら信じ難きことを信ぜよと云ふにはあらず。こだま会に於て慈音が語りし如く、老婆が医者より与へられし処方箋を護符と心得て服用し、其によって病気を払ひたりと云ふが如きは是信の力の強き人なるが故なり。嗤ふ人は信の力の弱はきが故なり。物の理を知りて却て信の力を傷くこと多からん。物の理を究はむる事は信を厚ぅせんがためなるべし。理を知らずとも信の厚き人は幸福なりと語りしも、ここにその徳の強きを知るならん。理非曲直を明らめての信仰は、正しき事は云ふ迄もなけれど、信ずる力の強弱は何によって生ずるかを原因に逆上ってよくよく考慮し見よ。理非曲直を明らめて後の信仰は永久不変なれど、老婆の如く処方箋を服用してのがれたる如き信仰は、一時的の現象にして永久的ならざる事は異論の余地なし。故に理非曲直を明めての後の信仰ならでは、永久の信は得難きことは云ふ迄もなし。信ずる力と云ふことは一時的にもあれ、永久的にもあれ。その信不信と云ふ意味に於て深く考慮せよと、我等は教ゆるものなり。理非曲直を明らむることと、信仰とは別個のものして、信不信とは如何なるものかを更に、研究するの必要ありと思ふが如何、理の有無に不拘、信と云ふものに対して何かそこに、一種の力あることを先づ考慮せざるべからず。

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