覚者慈音1661      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1661
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十六    汝のすべてを霊にゆだねよ    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・05


 気素を混濁せしむれば、光素はにぶし。光素をにぶらすれば、気素も亦にぶし。気素光素共ににぶければ光を失ふ。所謂油絶えなば光を失ひ、油ありても光なくんば、是又用をなさず。故に一方に偏りたる修養修行は成立するものにあらず。光気素の修行は熱度をたかむるのみにして光はにぶし。気光素のはたらきは、光を強ぅし熱度を調節するが故に、従って其はたらきは広大なり。是等の事柄は既に語りたれば、世人も定めて認識なし居るならん。兎に角零気は霊気に及ばずと承知せられたし。光気素は零気に合ひ、霊気は気光素に合うによってなり。故に霊気にまかせよと云ふことは肉体を霊気に投ぜよと云ふことなり。所謂肉体は神より作られたるものなれば、神のまにまにまかせよと云ふことなりと思はば可なり。死するも生くるもすべては神にまかせよ。神は如何にともなし給ふべしとの心にて、日々をすぐしなば己が責任も従って軽くならん。すべてを神にまかせたる以上、我行ひは神の命なりと思ひて任務をおろそかにせずば、身も心も安楽なりと思ふが如何。もし我心に痛苦を感ずることありとも、其は神の我に与へられたる責なれば、その痛苦は原因ありてならんとの心より、その原因をたしかめて黙して肉体を処理せば、痛苦の悩みは影を没せん。
 例へば美味なるものを多く喰ひて腹痛をひき起したる時、その原因は多食よりひき起し
たりと知るならば、そのものの消化を速くして然して是を排除せば、腹痛のなやみは除去さるる如く、すべての原因の悪かりしことを知らば、今後かかることをなさざるやぅ注意するは、即ち神の法則に従ひ是を正しく守るにあらざれば、苦痛は常に襲ひ来ると考ふるに至って、一つ々々の事柄をその理に基きて工夫することは、即ち修養修行の法と知るべし。身をまかせ心をまかせて怠らずば、肉体の痛苦には招かずとも医者は来らん。求めずとも薬は得られん。餓ゆるに当たって食も得られん。暑ければ冷気得られ、寒ければ暖気は来る。まかせざるが故に凡ては来らず。何事もすべてを霊気にまかすべし。汝の霊は汝を育つ。然して汝を死せしめざるべし。不安を抱くなかれ。不安を抱くは是まかせたるにあらず。信仰厚き人はすべてを霊にまかすことを得るなり。信仰弱きが故にまかすことを得ずと知らば、信仰の度をたかめよ。信仰強き人は凡てを霊にまかすことを得るなり。凡てをまかすことによって身心共に安らかとなる。信ぜずして苦まんよりは速に方向を変へて信ずる力を強ぅし其によって安楽を求めんことに努力せよ。迷信の中にも信あり。世人は迷信なるが故に斯るものを信ずるは愚なりとか称して、苦を招くことも少なからずあるなり。迷信なりとも信ずる力の強き人は其によって救はるる例も沢山あるなり。信ずる力は明暗何れにもあれ直ければ強し。迷信と雖も信じて救はるれば、迷信も却て正信と変ず。とにかく信ずる力の強き人は賢愚の如何に不拘救はるること多し。賢愚は却て信仰のさまたげとならん。故に他人の信じ居ることに対しては、たとえ其事柄が明暗何れなりとも傷くる事なかれ。明中に暗あり。暗中に明あるが故なり。愚者たりとて賢者たりとて信ずる力強ければ賢愚はものの数にあらず。大凡信ずる力の強き人は幸福なり。彼は迷信者なりとて嘲り嗤ふこと勿れ。是を嗤ふものは嗤ふ者こそ、我等に云はしむれば愚者なりと感ずるなり。

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