覚者慈音1659      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1659
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十六    汝のすべてを霊にゆだねよ    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・05


 まかすと云ふは如何にせばよきかと又もや苦みを、新らたに起したるにてはあらざるか。迷ひを深くすることは、是即ち迷ひを晴らさんとなすによってなり。迷ひ深ければ晴れて後の明らめも亦一層深からん。ものの醜美を知るは、何かものの形より受くる印象なり。形あり姿ありて、はじめて醜美を知る。世人はすべて目標の定まらざるものに対して無関心なるが故に、身をまかせ心をまかす事を得ざるならん。されば目標の定まれるものならでは、身心をゆだぬることは難かるべし。姿なく形なく目標の定まらざるものに身を任すことは定めて心細からん。任せなば救はるると知りつつも、尚何かそこに形、或は姿を追ひ求むるは、我身と云ふ形あるものを考慮するが故なり。よって先づ我身我姿を空に帰せしめよ。さて是を空なりと考ふるとも事実は形あるなり。空なりと考ふるも亦迷ひなるべし。我身を空にせんと計るともそれは得難し。今一段心を強くして、肉体の形あるものを何処かに棄てんとの考へを廻らし見よ。何れ一度は肉体を捨てざるべからず。故に今日限り肉体を捨てんとの考へを起して、既に肉体はなきものなりとの諦めをなさば如何 !
  肉体に宿る汝の心は汝によって見ることを得るや。汝の心は将に汝の脳裡にあり。されど汝の肉眼にてその心の如何なるかを見る事を得るや。我心を持ちながら我心を見しものは一人としてあらざるべし。心は空なり。その空なるものの命によって汝の肉体は左右せられ居るにてはあらざるか。斯く考へ及ぶ時汝の肉体は心によって左右せらるるものならば、その心消滅したらば肉体の自由は得られざるべし。肉体自由ならざればその肉体を見る眼も従って明らかならず。見ることあたはざれば醜美の区別は定まらざるべし。是即ち肉体も空なるにてはあらざるかをよくよく思惟し見よ。斯く語り来りたる時世人の肉体は、心と云ふ空なるものに任せ居るにてはあらざるかと先づ思ひを新にせよ。空なる心なるが故に、その心は種々様々の方向に歩みを運びて、為に汝の肉体をも迷はしめ居るにてはあらざるか。暗き心は暗きに走り、明るき心は明るきにのぼる。故に肉体は是に左右されて或は暗く、或は明るくなり居る事に心附かば、従って肉体を霊にゆだぬることも自ら察するを得る筈なり。空なる心なるが故に、空は霊によって支配せらるることも、自づと自覚せざるべからず。霊は清浄なり。清浄なる霊によって、空の中に含有する濁りを払ひ、然てその清らかなるを肉体に及ぼさば肉体の垢は自然きよめられて是又清浄となるは順序なるべし。我等が語る肉体を霊にまかせよと云ふは定まりある目標をたづね求よと云ふにあらず。目標の定まらざる処にこそ、即ち正しき目標は存在す。汝等が見る眼は狭し。広き高き処に眼を注げよ。然らずば正しき目標は得がたし。正しき目標を見る事は難からん。明らむると云ふは光明ならざるべからず。光明を得てはじめて目標は定まると知るべし。聊か哲学めきたること語りて世人の迷ひを一層深くしたり。されどこの哲学めきたることに心を止めよ。然らば自覚の法を感受することを得ん。故に迷ひを深くせば明らめての後のさとりは深し。脳裡をかすめて一時の明らめを得たりとて其は永久のさとりとはならざる故なり。永久の苦を払はずば、永久の楽みは得られじ。

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