覚者慈音1654      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述


覚者慈音1654
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十五      霊と魂について   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・04


 世人は日々沐浴して皮膚の汚れを洗ひ居れど、心魂の汚れは何によって清め居るやを考へ見よ。肉体の汚れは水によって洗はるれど、心魂の汚れを洗ふ水なかるべし。皮膚の汚れを洗ふ水とは、即ち霊を水にかへて用ゆるあらざれば清むることは難からん。是即ち霊浄の法と云ふなり。霊浄せずば心魂は清めらるるものにあらず。孔子は一日三度我身を省みよと教へたるにてはあらざるか。省みる即ち反省せよと云ふ事は心を洗ひきよめと云ふことなるべし。是も法なり。とかく人は日々の生活に追はれて心魂を汚し居ること多し。我等の如く山嶽に暮し居りてさへ、尚汚れを多くして常に師の鞭を受け居りたるに、まして世人の如く郷にありて汚れの多く重なるは、是又是非なきことなり。故に洗ひし上にも且つ洗ひて浄化せずば心魂は暗し。霊とは拝みなることは既に語りたれば、世人も既に承知なし居る事と承知す。拝みする心、拝みする態度は即ち霊に順じたる現はれにして尊し。故に間断なく拝みする人は、心魂は清められて輝きは増す。心魂清めらるれば、肉体の内臓その他筋肉血液悉くが浄化せられて、身心共に清らかとなる。故に外より入り来る悪魔は退散して影を没せん。我等の如く山嶽に在りて肉食せず、菜食にて暮し居るもこれ肉体の浄化を旨とするによってなり。さればこそ修行者の道を正しく歩みたる者は、死して屍を残すとも永久腐蝕するものにあらず。さりながらあやまちたる行ひをなして世をくらませる輩は、その比にあらざることは云ふ迄もなきなり。現在の宗教者の如く肉食妻帯を恣にして、己が身心共に汚れを多くなしたるもの、何とて世人を導ききよむることを得んや。動物性の食物にて肉体の健康をはかり、或は女色男色に溺れて心を傷け居りてはわづかの拝みなすも何等きよめらるるものにあらず。又衆生を済度する力あらんや。動物性の営養を肉体にあたふれば、健康となると近代学者は称し居れど、他に食品は数々あるなり。動物性の営養は血液その他を混濁せしむるが故に、種々様々の黴菌に犯さるるは是又理なるべし。余事はとにかく霊の威徳を重んじて是に心魂を打ちこんでの拝みにあらざれば、法の力は拡大することは難し。拝みの態度によって霊はその力を与ふる事を認識せば、拝みの力はたえず重ねて用い居らば、其にて身心共に清めらる。
 世人は都会と里と又山家と対照して考へ見よ。衆人の集る都会は、濁り、里は稍清らかにして、山河は一層清らかならん。下界に於てすらかくの如き相違あるなり。今空間へ上昇し見よ。されど尚も濁りある事に一驚するならん。地球の層をぬけ出でて尚上昇するとも、混濁せる様々の濁りは断えざるなり。是を尚も高く上昇して全く汚れなき処迄到達することは難し。宇宙の構造はかくも濁り居て清らかなる所は少なし。下界より望遠鏡にて見る時は、さも清らかなる如く見ゆれど、事実上昇し見ば全く浄化せられ居るところはきはめて狭し。故に光の速度を地球上にて計算すとも完全に測定することは得がたし。此事については貴尊が語らるる故に我は唯霊に対しての説明の序でなれば認めをくに止むべし。

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