覚者慈音1652      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1652
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十五      霊と魂について   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・03


 悪魔に墜ればその行ひは悪魔の法に化せられて、霊は悪魔に向はしむるが故に、通力は悪魔の法と化せらるるが故に、神より受けたる通力が、反対の立場におかれて遂には悪魔の方向におとされ行くなり。斯く考ふれば神は楽みを与へ、悪魔は苦みを得せしむる結果となることも推して知ることを得るならん。されど是は相対の苦楽を意味するにあらず。絶対苦絶対樂の境涯を云ふなり。是を具体的に説明せんとせば不自由なる言葉にては云ひ現はし難し。多く語らば却て迷ひを深くせん。故に唯、絶対苦絶対樂と語りをくに止むべし。斯く説き来りたる時世人は思ふならん。
 草にも木にも霊ありとせば、人間と同様のはたらきを有するが故に、草木は神に至るやとの迷ひも生ずるならん。されどそは認識をあやまち居るなり。草木には魂はあらざる故なり。魂あらざれども霊は其力を以て、すべてを生かし居るが故なり。もし人間に与へられたる魂を、草木に与へなば忽ち草木も神に至らん。故に魂を得たるもの、其魂の力を知るにあらざれば霊は得がたし。草木には魂はなし。されど霊ははたらく。其はたらきが凡てを育て、すべてを生存せしむる力あるによって、宗教者は草木と雖も成仏すと称へ居るなり。草を喰ひてすべてのものを生存せしむる以上、是に礼を与へずば、其もののはたらきを無為に終らすが故に殺生となる。故に是に感謝の礼をあたへ其徳をあたへて喰はずば、魂の有せざる彼等は憫なるべし。故に宗教者は草木に至る迄、生はある以上是にも感謝せよと教へ居るなり。よく童話などに木の精とか草の精とか云ふことは語り伝へらるるも、草木には魂なけれど生命あることを教へたるものなるべし。生命と魂を混同すべからず。木にも草にも、生命あるが故に、千万の年月を生存なし居るにてはあらざるか。是は霊あるが故なり。霊はすべてを生かし、すべてを養育す。実に霊の力こそ広大無辺なるべし。魂を有する汝等にありては徒らに肉体をながからしむるは、これ又魂をおろそかになすが故なり。肉体は草木の其と同様にて生命を有す。其生命を有する肉体に宿されたる魂こそ、即ち他のものと異なりたる関係をよくよく思惟して道を求めざれば、魂の宿されたる責任は果されざるべし。ここに悟るところはあらざるかと促すものなり。生命と魂との判断を世人は誤解なし居るが故に、混同して物事を考ふること多からん。

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