覚者慈音1651      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1651
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十五      霊と魂について   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・03


  従来より述べ来りたる如く身心魂の如何に不拘、霊はその時々の境遇に対して、そのままに順じてはたらきをなし居るにて、善悪邪正のそのままに従ひて、是を是正せんとなすにあらず。霊とは如何なる関係にをかれたりやと云ふに即ち正しければ正しきに従ひ、正しからざれば又正しからざるに従ふ。魂が正しければ霊も亦正し。斯く語らば世人は思ふならん。霊とは曖昧なるものなるかと。是等に関しては既に今日迄説き尽したれば、世人は既に承知なし居るならんとは思へど、我の語らんとするところは霊と魂の一体化についてその大切なる点を明らかにして、世人の修養の道を得せしめんと計る故なり。霊のことについて様々語り来りたれど世人は霊の存在を今尚明らめず迷ひ居ることを我はよく知る。霊は零なりと説きたるが故に、霊を誤解なし居るならん。何となれば霊と云はば世人は幽霊などの如きものを想像して、霊の真を今尚考へざるにてはあらざるか。幽霊の如きものを想像するは霊にあらず。又宗教者が語る霊、或は近代心霊学など称して研究なし居る霊の如きを想像せば其は大なる誤解なり。我に有する守護霊は何々とか云へる如き愚なる考へにて、霊の研究をなさんなどとは実に愚も亦甚だし。霊とは人にのみ有するものにあらず。全宇宙に通じてはたらきをなし居るが故に、一切悉く全宇宙に存在するものに通じて、はたらきをなし居るものを霊と云ふなり。是を縮小して汝等が世界に於て見る時、山川草木はもとより動生物に至る迄、みな悉く霊の力を有せざるもの一としてあらざるなり。されど世人は霊の何なるかを正しく認識なし居らざるが故に、霊を過少に考へて、是を別個の方面より研究せんとはかるは実に笑止の至りなり。
 もし宇宙に霊なくんば今日の科学は成立せざるべし。科学するものにとりて霊の力なくんば何ものをも成立せしむることは得がたし。もし汝等の世界に霊なくんば、食物すら得られざるべし。又霊なくんば宇宙は存在するものにあらず。一個の細胞にも霊ははたらく故に、その細胞は生を得てはたらきをなし居るなり。空気の中に含まれ居る種々様々のものにも悉く霊は宿り居るなり。此理をよくよく認識せざれば魂(たましい)をきよむることは得ざるなり。汝の魂は如何あらんとも、霊は離るるものにあらざることは、この理に依て推測なすことを得るならん。魂正しければ霊は正しきに従ひ、然らざれば霊は又正しからざるに従ふ。何れにもあれ霊は魂をはなるるものにあらざることは異論の余地なし。魂より霊を見るにあらざれば、霊の正体は明らかならず。魂の動じかたにて霊は其に順じて魂を育つるが故に、魂の用ひかたが一朝あやまてば霊も亦其に順ず。ここに霊と魂の一体化によって或は是ともなり、或は非ともなる。実に微妙なる関係を有すと知るべし。赤子が母を知らねど母は赤子を守る如く、霊は魂の母なり。赤子が日に日に智慧を増して母を知るに至る如く、魂も育ちて霊を知るに至らば、其にて霊と魂の一体化は得らるると承知せよ。
 今我等此説を説き居るも即ち霊の力あるによってなり。もしこの霊のはたらきなくんば我の語る処は如何に大声にてよばはるとも通ずるものにあらず。声なき声も霊によって声ある声と化せられ居るなり。霊あるが故に無形のものを有形として現出せしむることも得るなり。是即ち霊の力なり。又智慧なきものに智慧を与ふるも霊の力なり。生かすも霊なり。亡ぼすも霊なり。この霊の力を神は応用なし給ひ居るなり。故に霊は神にも通じ。又人類その他のものに対しても通ず。通ずるが故に修養修行の力も亦増大して人類と雖も、神に至らんとせば霊に依って神にはこばる。仏にならんとせば仏にもなり得る力は、霊徳あるによってこそ得らる。悪魔に堕んとせば又悪魔に転落することも得らるるは、是即ち霊の力なり。故に魂が方向を神に向くれば神に至らしめ、悪魔に向へば悪魔に至らしむ。通力もみな霊の力なり。釈迦キリストも皆この霊の力を知りしが故に、種々様々の奇蹟的行為もなし得られたるなり。通力も亦霊あるが故にこそ行はる。世人はこの霊に対して礼を知らざるが故に通力は得られざるなり。拝みするは礼なり。礼は霊をはたらかすに依って正しき方面にむけらるるなり。礼なくして無礼に終らば転落の止むなきに至る。故に礼を正しくするものは神の方向に進ませらるるが故に、其はたらきは神に通ず。

×

非ログインユーザーとして返信する