覚者慈音1627   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1627
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第六十      自我魂へ通ずる道とは如何   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・27


 魂の力を易に依て数測することは、至難にあらざる故に我は斯くも断言なすに他ならず。貴尊方が今日迄説かれし教へはすべて易に依って是を徹せば、聊かもあやまちあらざるが故なり。されば従来貴尊方の仰せられしことは、みな易学なりと承知せられたし。我、円海こだま会の折光山に語りし如く、古き昔は筮(うらない)するに百のものを以てすと語りたり。是に対して世人には何かうなずく処あらざるか。世人は仏前に拝みをなす時手にかけをる数珠は、即ち算教器にして、是昔の筮法に用い居たるものなり。数珠の珠は百十個ありて、其中二個は易の両儀に合ひ、然して八数は四象八卦にして、残りの百個を以て算数となして計算なし居たるものなるが、是を仏教者は拝みの具として用い居れど、其は易を知らざるが故に、筮するに用い居るにすぎざるなり。然して彼等に云はしむれば、掌中に百八煩悩を消滅するとのみ称へ居れど、事実は斯る単純なるものにてはあらざりしなり。故に是を珠数と云ふなり。珠数とは珠数にてものを計るの用具を云ふなり。行者が首にかけたる珠数こそ、是を以て筮してすべてを明らめ居たることも、推して知ることを得るならん。其はとにかく人数に至る迄の十二桁、是に対して先づ考へ見よ。最初の獏より上方に数ふる時、十獏が秒となり、十秒が埃となり、十埃が塵となり次第に上りて分に至らば十分が人数の一となる。是を計算する時十二の十倍、即ち百二十のものそなはらざれば、人数の一とはならざるなり。是によって見るも人間に生れたるもの、百二十の具へあることも易にて計算なしたることも明らかならん。かかる法もあるに不拘、近代の如く五十本の竹にて祈りをなし、是を二分して算へ算木に移して卦をたて、其によって何かと判断する如きは、小児の玩弄にすぎざるべし。我の語る処に疑ひあらば、世人は二三人集りて筮竹を以て易をたてて見よ。三人五人と同じ卦はたたざるべし。甲は何々、乙は何々とみな其々変りたる卦とならん。其にて確実なる数学とは云ひ難し。二に二を乗ずれば四となる。二と二を加ふるも亦四となる。是は誰もが行ひて異なることなかるべし。斯くしてこそ易は正し。されど筮竹を以て現今の如く計り居ては、百人千人みな異なりたる答を出すにすぎざらん。斯るものを信ずる人こそ、愚者と云ふの他なかるべし。如何に口賢く語るとも事実は証明なす以上、理窟にては如何ともなし難きは当然なるべし。

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