覚者慈音1621   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1621
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇 
第五十九      接続根と魂との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・26


  我、自我心を独尊と教へたるため、魂に対しては更に別個の考へを持つならんと思ふが故に、ここに注意を促すものなり。我の教へしは人間としての尊きものは自我心と云ひたるにて、その尊き人間性自我心なくば汝に授けられたる魂は完全に育てられるものにあらず。人間的自我心は人間にのみ架せられたる尊きものにて、是を魂に同化することによって、人間性より度脱して魂階に入るが故に、ここに至って始めて人間の一生を全うして、更に魂階に生れ、又一段進みたる階を上ると考ふれば、即ち往生とは自我心を魂階に入らしめて、始めて得らるると知らば可なり。故に仏教にては即身即仏是身是仏と称し居るも、自我心を魂階に生れかはらしめたるを云ふなるべし。是によつて往生の意味は、肉体を有しながら其身其まま生れかはることの意味は察することを得ん。よくよく考慮工夫せられんことを望む。故に人間としての最高の尊きものは即ち自我心なりと教へたるなり。大悟すると云ふは自我心を魂階に入らしめたることによって、始めて現はるる現象を指すなり。故に修養と云ふは自我心を魂に化せしむることの方法をきはむるにあらざれば、真の修養修行とはならざることに考慮を払ふべし。心魂一如とか、或は心霊一体とかの方法は、即ち法によって行ずるあらざれば目的は達し難し。法とは正しき歩みを云ふなり。正しからざれば顛落するは是又必然の道理ならん。所謂魂より進みて自我心を救ふは、是他力の法にて心(しん)より魂(こん)進むは、即ち自力の法に合ふと知らば題目を称へて、拝みするも是自力の法なるべし。又更に感謝の念仏して、魂階に化せらるる事も是又他力の法に合ふと知らば、自ら自他の区別も判明するならん。然して拝みとは心魂一如となす方法なりと悟らば如何 !
 汝に架せられたる自我心も亦汝なるべし。然りとせば魂も汝なり。心も汝なり。他のものにあらざる道理を是によって悟ることを得るにてはあらざるか。初心者には語るべからずと教へしはここなり。斯く語らば余り簡単にして深き意味なしと云ふ軽率なる振舞をなす時は、却て往生はなし難きことの理も自づと察するを得ん。故に初心者には語るべからずと説きたるなり。されどすべてを体得したるものならば、成程と合点することを得て益々信仰の度をたかむることは察せらるるならん。貴尊が仰せられし自問自答の法とは、所謂心と魂の相互一体なさしむる大切なる方法なることも、推して知ることを得たるならんと思ふが如何 !
 心と魂が常に語りあひ居らば従って融和し、大なる魂に小さき心が教化せられて、魂の階に上ることは疑ひなかるべし。世人は自問自答に対してあまり是を重大視せず、軽視なし居る傾向あることを我等は知るなり。其は余りに簡単に考へ居る結果なるべし。

×

非ログインユーザーとして返信する