覚者慈音150   未知日記講義第一二巻  大霊界  空の信仰においても二種あり   教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                         NO106
      
   信仰の力             その7
                                                 教主寛大 講述


 空の信仰に於ても二種あり。即ち確定信仰と不確定信仰の二つに別る。故に確定信仰を択ばざるべからず。確定信仰を得んとせば不確定を確定にする迄、研究するにあらざれば
得難し。この理はむづかしくて諸子には解すること難からん。是等は追々語り聞かすべし。空の中にも虚実あり。故に確定なすことは至難なり。空の中より実を求めて進むにあらざれば、道は得難し。空の中より実を知ると云ふは、是又困難なり。大旨諸子の考ふる事柄は虚に属するが故に、空より実を択ぶことを得ず。常に不確定より不確定の信仰に化せられて、迷ひのみ深くして信ずることあたはず。信ずるあたはざるが故に、止むなく放棄するの他なからん。斯る事を繰り返し居りては、終生信仰に入ること難きは当然なるべし。指導者を択びてその指導者が体験したる実を教へられて、ここにはじめて迷ふことなく、確定したる信仰を得ることは易からん。指導者を択ぶと云ふも実を求めんがための方法なるべし。正しき指導者を択ぶは空にして、正しからざざるものを択ぶは虚に属す。ここに於て果してその指導者が如何なるかに関して選択せざれば、確定信仰と思ふことが却って不確定となる場合も多し。指導者を選択するには是又智慧をはたらかさざるべからず。選択したる指導者が、我に対して正しき事を教へ呉るか、或は正しからざる事を伝へ居るかを鑑別する智慧なかりせば、希望は果されざるは是又当然なり。慈音はすべての指導者を観音として択びたるは此理なるが故なり。はじめ彼は幼き頃母より、「汝には観音の力備はりて救はれたり。故に汝は生涯観音を信ぜよ」と、云へる母の言葉を深く信じ、其によって今日の結果を得たるなり。もし彼にして種々様々のかはりたる指導者より、是が優れたりとか劣りたりとか云へる如き区別を以て従ひ居らば、教へらるる道は範囲広きが故に、迷ひも亦多し。故に是を統括してすべてを観音と云ふ指導者に結びつけて、其れによって教へられたる導きの中より、優れたるもののみを己に取り入れて、他のものは悉く排除して捨つるものは捨て拾うふものは拾ひ、是を肥料となして其によって信仰の度をたかめたるが故に、目的は達せられつつあるなり。悪を見て善を知り、その悪を悉く善の肥料となして、悪に染まらず、善悪共に肥料として其によって、正しき道に進み居るが故にこそ、悪にも染まらず善にも染まらず、善悪一如の良薬として吸収なし居るなり。故に慈音の信仰は確定信仰となりて輝きの度をたかめつつ、光明の力は漸次加はりつつあることは我等よく知る。慈音の心より見る時は、ミキョウ。セイキョウ。テッシンはもとより我も観音として、彼は念じ居るなり。慈音はすべて世の中の事柄は皆観音なりと云ふ。確定信仰を得たるは幼児より、母により授けられたる教へを固く守り居たる為、是を捨てず、今後と雖も捨つることなく観音の道を措いては、他の道を択ぶことなかるべし。故に天界に入ることは明らかなり。空の信仰とはかくの如きものにて、道は一つにして多くのものは悉く道の道標として排列したるにすぎず。所謂「草木道を得せずんば、足を運ぶも、道を知ること難かるべし」と、云ふ教へあるに徴しても明らかならん。
 大海原を航行して羅針盤なくんば、目的の港に達すること能はざるべし。羅針盤は指導者なりとせば、諸子も天界に入るべき羅針盤なかるべからず。故に正しき指導者を求むれば可ならん。

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