覚者慈音151 未知日記講義第一二巻  大霊界 巻の三  NO107 教主寛大講義


未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                         NO107
      
   信仰の力            その8
                                                                            教主寛大 講述


 大空に数多の星散在しあるが故に、砂漠を歩むも迷はざるなり。すべて道を知らしめんが為に、種々様々の方面に於て各所々々に、一定の備はりたるものを作りあるによりて方向は定まる。定まりたる方向に足を向れば、目的の地に達することは得らるるなり。空の中に実あり。実の中にも亦虚あるべし。虚実あるによって、実をも知り又虚をも知る。虚実を鑑別することは、空の力なかりせば知ること難し。虚実を知る空の鏡こそ、大切なるべし。虚実を照らす空の鏡とは、即ち光明を云ふなり。今次に信仰の事について例話を掲げて参考とせん。
 さる処に信仰厚き二人の道士あり。彼等は常に神を信じてありしが、或夜の夢に天使現れて曰く、汝等両名我指定する斯く々々の場所迄来るべし。我、汝等に教ゆべき事あるによってなり。是に対して注意することあり。汝等両人如何なることありしも、必ず左の道を択ぶべし。右に足を運ぶこと勿れと教へて夢はさめたり。然るに一人の信者は足弱はきものにて、歩行も人並みならず。今一人は健康なれど体力の弱はき人なり。さて彼等両人その夢を信じて、連れだちて道につきしが、行く程もなく道は左右に別れたり。此時両人道を見れば左方の道は雑草生ひ繁り、右方は広かりしかば、体力の弱き人曰く、「天使は左方せよと仰せられしはあやまちならん。何となれば右方は人の繁く往来すると見えて道は平らなり。然るに交通すくなきと見え道も細く又険し。然して斯くも雑草繁り居れば、汝の如き足弱にては到底歩むに堪え難からん。彼を思ひこれを思ふ時、天使は何か左右の区を間違えられしならん。よって我等は右方を歩まん」とすすめしかど、足弱の人曰く、「たとえ天使の仰せあやまちたるにもせよ、我等は確かに左方を歩めとの仰せなれば、是に従はざるべからずよって左方を歩まん」と。然るに体力弱き人は是に従はず、「我は右すべし」とて右方に足を運びたり。足弱の人は左方に向ひて、此処に両者左右に別れて進みたり。左方の人は行く程に道は益々険しくなり、木の根岩角をよぢ登らずば歩むあたはざる程困難なるに不拘、彼は右方に偏らず左方へ々々々と進み行く程に、道は益々険しく足は疲れて進むあたはず、つまづきては倒れ倒れては起き、剰え足は傷きて血潮すらふき出すに不拘、彼は屈せず進みたるに道は絶えて、目前に現はれしは大岩石にして、その大岩石の上より二本の蔓が下りゐたり。見れば右の蔓は太くたくましくして、左の蔓は細く弱々しかりしが、彼は其たくましき方に縋らんとなせし時ふと心づきて「如何なる場合にも右する勿れ」との教へを思ひ出して、たとえ此蔓が切るればとて何かは厭ふことあらんやと思ひ定めて、左の蔓をしっかと握り其を力に大岩石をよぢ登りたり。軈て岩上に天使はにこやかに手を差し延べて、彼を引き上げ給ひて汝はよくぞ我教へ守りて来たりたり。此時彼は天使に向ひて、我と共に来りたる道士は如何になりしかとたづぬれば、天使は一葉の鏡を示して「是を見よ」と云はるるがままに其を見れば、体力弱き方が右方の道を択びて歩む程に、道は広々として歩むに苦みなく、軈てわずかの坂を登れば其よりは道は益々開けて下り坂となり、彼は心地よげに道歌を口ずさみながら下り行きし如何になしけん、石につまづきて倒れたり。軈て起きあがりて歩まんとなしけるに、不思議や彼はいざりとなりて立つことあたはず。されど道は広くして険しからねばいざりのままにて、手の力と共に下り行きしが、やがて一つの町に入り見れば何ぞはからんここは遊郭にして、遊び女多く実に如何しき処なりし。その様が天使の鏡に映り居るを見て、足弱き人嘆きて「我道士かかる処に堕ち行きしは不憫なり。如何にかして是を救ひ給へ」と、哀願なしけるに、天使曰く、「彼は我教へを用いず斯くはなりたれど、汝は我教へを守りたる故に今は安穏なり。されば汝是より彼の許に下り、然して彼を伴ひ来るべし」と仰せられしかば、彼は「我に斯る力ありや」と聞けば、「汝は既にその力そなわる、疑ふことなく行くべし」と云ひ残して天使は去りたり。やがて彼はもと来りし道を引き返へしたるに、彼の足は自由自在にして安々と、体力弱き人の堕ちたる遊郭迄達することを得たり。然して彼は体力弱き人の身体を撫で摩れば、いざりは立ち弱き身体はぬぐうが如く健全となりたり。然して彼等二人は相携へて、又も天使の許を訪ねしと云ふ例話なり。此例話によって知らるる如く、人はすべて安楽より安楽へと、安楽を追ひ求めて世渡りするは一般の習性なり。所謂体力弱き人の姿を是になぞらへたるならん。人生の一代はたとえ苦くとも、最後の安楽を求めて動ぜずば最後は、安楽の境涯に入ることを教へしは、足弱の人を喩えたるならんと思ひて信仰の方法を考へ見よ。さらばうなづくところあらん。空しきお伽噺と聞きのがすこと勿れ。

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