覚者慈音149  大霊界  虚の信仰を求むる勿れ。信仰は空ならざるべからず。 教主寛大講義

未知日記講話集    教主寛大講義
      
                   教主寛大 講述


 藁を作りて、世の中はなりたつものにあらず。斯る事の多き時は餓死者の数多出でて修羅の巷となるならん。真に憂うべきことなり。作物の増収をはかりて年々豊作ならざるべからず。其が不作にて食足らざれば、多くの人の餓死するは当然なるべし。我等は年々増収を得せしめんとして肥料を十分に与へんとなし居るなり。信仰を得よとは肥料を与へよと云ふことなり。信仰を得るとは肥料を吸収することを云ふなり。肥料を十分に吸収せば稔りの増収は全きを得て豊作となり世は安かるべし。或ものの語りたる如く若き時信仰なく、老いて身体の自由を失ひ淋しさを感じて、ここに於て信仰を求むる如きは最早手をくれとなりて、完全の稔りの得られざるは当然なるべし。されば若き壮年期より肥料を吸収し居らば、老ゆるも淋しさなど感ずるものにあらす。故に信仰に入らんとするもの小児時代より信仰を得せしむるにあらざれば生涯稔りの得られざるは是又当然なるべし。故に小児時代より信仰の道を得せしめをく事の大切なるは察する事を得るならん。親として子を育つる任務の最も大切なる事は、信仰を得せしむる事の如何に大切なるかは、是等の理によっても明白なるべし。親にして信仰なきもの、子に対して信仰せしむることは難かるべし。親は手本となりて子を導くにあらざれば、空なる信仰は得せしむる事はなし難し。ここに於て空と云ふものの如何にはたらきの勝れたるかは、朧気ながらも衆人には解することを得たらんと思ふが如何! よくよく考慮せられんことを。
 眼に見えず耳に聞えず空なるものを小児に知らしめんとするは、所謂自然暗示を与ふるにあらざれば、目的は達し難し。もしその空なるものが誤まてる考へより小児を導かば、暗示となり其後の働きは邪道に入り、是又小児を誤またしむる結果となることは云ふ迄もなし。故に空の信仰は正しきを択ばざるべからず。正しき信仰を以て小児に暗示を送りをかば、すぐれたる結果となるは是又理なるべし。善者の指導は善となり、悪者の指導は悪となる。仏教に云ふ善因善果悪因悪果と云ふは此理なり。是即ち信仰の現はれなり。
 母の心が善ならば子の心も善なるべし。されど母は行ひのみ表面を善にし、心に悪を貯ふれば成長する子は、その悪の方を暗示に受けて悪人となる。故に表裏の心もて子を育つること勿れ。世の中には善人の子に、悪人生るると云ふ如き例は多くあるなり。是等を仔細に研究すれば、その親の心は悪なりしによることは、往々見受けらるる現象なり。親は表面に善をなし、裏面に悪を貯へ居るが故に、育つ子は悪の方をうけ居りて、長ずるに及びて暗示がはたらきて悪人となり居ることは、我等よく知る。されど世間は是を知らざるなり。
 信仰とは斯くの如く範囲広し。又信仰の力も其に順じて働く。溺るるものは、藁をも掴む如き、危き信仰をなす勿れ。斯る信仰は或者の語りたる例話に等し。彼の信仰は刹那々々の信仰なるが故に、完全無欠の信仰は得られざるなり。余儀なき信仰なるが故に、暗示とはならずして消滅するが故に、如何になすとも正しきを得ることを得ず。故に迷ふなり。所謂虚の信仰となり居るによってなり。虚の信仰を求むる勿れ。信仰は空ならざるべからず。

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