覚者慈音148   未知日記講義第一二巻  大霊界 巻の三  信仰の力  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                         NO104
      
   信仰の力            その5
                                                 教主寛大 講述


 此理を応用したるものは催眠術とか、感応術とか称するものの方法として使用なし居れど、この理を知りたるものには暗示は効を奏せざるなり。何となれば、その燭を受けても点火せずして捨るがゆえなり。常識そなはりたる者と雖も、その燭を受けて捨てず、点火せば暗示ははたらく。常識そなはりたる者の邪宗に迷はさるるものは、暗示を受けて捨てずして点火なすによってなり。空を信ずると云ふも暗き心を明るくせんがための方法にして、其によって暗き処を無からしめんと計るにすぎず。信仰とは心の点火をはかり更に進んで、魂の点火をなさんとする方法を信仰と云ひ、拝みと云ふ点火法によって、念の力を益々増大せんとはかるは、是即ち信仰の力をたかくせしむる学なりと見なして可ならん。
 信仰の力の強き人は、恰も太陽の光を受けたるが如し。故にあますところなく照らし居るなり。されど肉体を有する間は影あるによって暗きが如く見ゆれど、信仰を得ばその影は暗黒にあらずして照らされ居るなり。影は暗くとも暗黒の暗とはその差異なる処あらん。是等は諸子にも合点するところ多かるべし。兎に角信仰によって光明を得ば、それにて望は達せられたるなりと承知せよ。
 或老人語りて曰く、「我若かりし頃は彼是と生活に追はれて、東奔西走なし居たるため忙がしくて、信仰とか言ふが如き念も起らず過ごし居たりしが、年老ゆるに及びて肉体の自由も意の如くならず、加ふるに我友は次第に減少して少なくなるに及びて、何となく淋しみを感じ来るに至りて、何か求めずば、堪え難き不安の心加はりて安らかならず。ここに至って我心の友を求めんとはかりたれど、さて満足すべきもの一としてなく従って心の不安は益々加はるのみ。その淋しさに堪えかねて漸く神とか仏とか云ふものに心ひかれて、信仰せんと思ひたちたれど我心の慰めとなるべきものは得られず。今尚迷ひ居るなり」と話居るを我等は聞きたり。すべて人は壮年期には何かと様々のものに囚はれて、淋しさ感ずる隙なきが故に、空なるものなど頼まんとする心は起こらざるなり。肉体が老衰するに従ひて、その自由をも意の如くならざるに至らば、何物かによって心の慰安をはからんとするは、一般人のならはしならん。財産を貯へて老いぬれば楽隠居して、余生を何物かに依って頼まんとはかれど、其は事実意の如くならざるべし。さればこそ小人閑居して不善を企つと云ふ教へすらあるならん。淋しさをまぎらはさんとして種々様々の遊戯に耽る。其が楽隠居と云ふならば人間の一生は、至極単純なるものなるべし。若き時はたらきて金儲けなし、老後其によって楽しまんと云へる如き生活にて、果して心の満足が得らるるものならば、何を苦んで修養修行などなすの必要あらんや。かかる生活をなして肉体を空しく捨てたる人が、真の幸福者なりと思ふや。彼の人は若き時ははたらきて老後を安楽に送りたり。彼こそ真の幸福者なりとして衆人は羨ましく思ひ居るならん。是を我等の眼より見る時は実に哀れなる者なりと云ふの他なきなり。斯る者は肉体の一生を考へて、心魂の何なるかを知らずして世を終りたるものなるが故に、肉体滅後は苦み多し。所謂動物性生涯を全うしたるが故にすぎざるなり。
   斯る事を語るとも衆人は富者の安楽に終りたるを羨みて、滅後如何あらんとも肉体の有する間は、彼と同様の生活を営みたしと願ふ人は多かるべし。さればこそ衆人は云ふならん。彼の人は前世に於て如何なるよき事をなせしかなど口にし居るを我等は耳にす。兎に角人は斯くの如きあさはかなる考へを以て世終る人は多し。実に気の毒なるものかなと思ふなり。斯る事にてよきものならば若き間に刻苦勉励してはたらき、金を儲けて老後の安楽をはかるに不如、何を苦しんで信仰などなすの養らんや。誰かの句に「金持て死んで行く道迷ふより、儲けて使ふて是が極楽」と云ふをききたり。
 所謂富者の楽隠居にて世を終りたるは米を作らず、藁を作りて終りたる人なり。又短歌にて見る如き死して行く道迷ふと云ふ考えへの人は、白穂にて終りたる人なり。すべて信仰心のなき人はかくの如き結果にて世を送るが故に、魂の影だに見ることあたはず。唯動物性にて終る不憫の者なれば、斯る者の少なからしめんがために、我等は導きをなさんとはかり居るなり。

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