覚者慈音147  未知日記講義第一二巻  大霊界   信仰の力  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                         NO103
      
   信仰の力            その4
                                                 教主寛大 講述


 霊には霊の音響あり。魂には魂の音響あり。心には心のひびきあり。肉体又同様なり。されば信仰に入る人は肉体信仰より、心の信仰更に魂、はては霊に迄及ほす信仰ならざるべからず。肉体信仰を基礎として考ふる時その信仰が誤またば、心魂霊に及ほす影響はすべて錯誤の信仰となる故に、基礎的肉体の信仰をあやまたざるやぅ注意せざるべからず。
 例へば肉体の弱き者が重き労働に堪え難きを知りながら、是をなさんとする如きは、基礎をあやまたしむるが故に、成功するものにあらざることは諸子もよく知るところならん。はじめよりその体力を知りて、その程度に従ひて進むにあらざれば望は達し難し。是基礎的信仰と云ふなり。又己の個性己の分野を知ると云ふなり。
 己、はじめより己の個性を知る人は稀なり。故にその個性を知らんがために信仰によりて是を知らんと計るは信仰の法なり。信仰とは暗きところを照らす光明を、求むる方法なるによってなりと思はば可ならん。学問によりて智識を得んとするも信仰なり。然るに衆人は学問をしながら、その学問を応用せざるが故に迷ふなり。迷ふは暗き心なるが故ならん。我等は何日も語り居る如く物識りになる勿れ、識るのみにては、何等の用もなさずと教へ居るは此理なり。知ることを得ばさとるべし。さとるにあらざれば如何に学問すとも甲斐なし。例へば汝等衆人の学問は恰も多くの鑞燭をあつめ居ると同様にして、如何にすぐれたる燭なりとて点火せざれば、光を放つものにあらず。学問をしてその学問を応用するにあらざれば、学の徳はあらはれざるに等し。徒に燭を貯へ居るのみにては何等の価値もなからん。物識りとは燭を集め居るにすぎず。さとりとは、点火することなりと知らば、物識りとさとりたる者との区別は、明らかに認識することを得ん。されば我等の教へをることは衆人に対して燭を与へ居るにすぎず。その燭を受けて是に点火せば、明らかに道は照らさるべし。信仰とは己が心暗きが故に、光を求めて心の暗きを照らさんとすることを、信仰と云ふなり。念ずると云ふは燭のすぐれたるものを得んが為の念なり。拝みと云ふはその念によって作られたる燭に、点火する方法にすぎず。さとりと云ふは光明を得て、迷はざる底に化せらるるにあらざれば、真の覚りとはならざるなり。光明を得て道を照らさば、迷ふことはあらざるならん。ここに至ってはじめてさとりの境涯に入る。心の信仰よりさとりを得て、魂の燈火は赫々として霊界を照らすによって、ここにはじめて迷ひの境涯は消滅して、光明の世界に到達することを得るなり。学は広くすべしと教へ居る聖者の言葉は是なり。広く学して広き世界を照らす光明を得ば、迷ふことはあらざるならん。徒に燭のみ貯へて点火せざれば学も甲斐なし。愚なる人は心暗き人なり。是に光を与ふれば愚者も賢者とならん。愚者は迷へど賢者は惑はずとあるはこの理なるが故なり。この理より推知せば誤ちたる信仰は危ふし。何となれば点火するも光の度鈍きが故に、照らす力乏しきが故なり。正しき信仰はすぐれたる光を放つ。故に迷はしむることなきなり。
 是等の事柄より考ふるとき暗示の如何に、大切なるかは察するを得たるならん。暗示とは暗き処に光明を送るが故に、働く力なることの理も推して知らるるならん。即ち暗き処に燭をともすに等し。是を暗示作用と云ふなり。是を解し易く説明すれば、一本の鑞燭を与へ居るに等し。其が暗き処に至って点火することによって照らさるると同様の関係あるなり。消してはともし、消してはともすその燭の尽きざる間は、暗示ははたらく力を有すと見なさば自づと理解することを得るならん。伝統的暗示と云ふもその事柄に対して其を照らす鑞燭に等し。是等も信仰の一種なり。

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