覚者慈音146   未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の三  信仰の力  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                         NO102
      
   信仰の力            その3
                                                 教主寛大 講述


 信仰とは智慧にもあらず。学問にもあらず。又常識の如何にもあらず。即ち念なり。されば信仰のはじまりは、ものを磨く布の如しと教へ居る指導者もあるなり。信仰は正邪の区別なく何れにもあれ念ずれば必ず通ず。信仰のはじまりは不確定が次第に確定となりて現はれ来るものなり。石と雖もみがき居らば鏡の如く光を放つ。是信仰の力なり。故に信仰は念なりと思ふも差支なからん。誤りたる信仰をなす人は石を研くに等し。正しき信仰者は玉を研くと思はば、正信誤信の結果は判明するならん。石をみがきてたとえ光を放つとも、玉の光に、比ぶべくもあらざるならん。信仰とは斯くの如きものにて智識の備はり如何に不拘、念ずれば必ず結果は得らるるなり。さればこそ世には智識の程度高きに不拘、邪教を信じて、凝り固り居る人の多きを見るならん。石を磨く隙あらば玉をみがくに不如とは考へざるや。人間にはこの備りが自然に授かり居るが故に、信ずる力は誰しも有し居るなり。囲碁将棋に凝り固まる人は、念の力が囲碁将棋に囚はれ居るが故に、信仰を捨てることあたはざるなり。是あるが故に人間は天分によりて信ずる道も従って異なるなり。ものに凝り固まる人は、念の力によるなり。是即ち信仰なり。執着するも念なり。人を怨み世を呪ふも亦念なり。是等も信仰の一種なり。信仰とは神のみに限らず、すべては信仰によって念じ居るにすぎずと云ふも、こじつけにはあらざるなり。信仰の範囲は極めて広し。信仰と云へば汝等衆人は神を頼むことのみ信仰なりと思はば錯誤にして、すべては信仰ならざるべからず。汝等衆人の諺に鰯の頭も信心からと云ふあらん。信心あるが故に念ずるなり。念ずるが故に磨かれて光明を放つ。是即ち信仰の力なり。念の力を深くする人は正邪の区別を論ぜず、信仰の備り強きが故なり。是も信ずるに足らず。彼も信ずる用なしと云へる如き迷ひ多き人は、念の力うすきが故なり。一旦その道に入りてたとえそのものの如何に不拘なし遂ぐる人は、念の力強きが故に信仰のあらはれも亦強し。故に目的は達せらるるなり。
 他力宗の宗祖が、智者の振舞をせず、唯一向に念仏すべしと教へしはこの理なり。自力宗の宗祖が題目によりて成仏せよと教へしも是又同様なり。帰するところは念の力を養へよと云ふならん。誰かの句に「虎と見て岩に立つ矢のためしあり」と云ふあらん。念の力は斯くも強し。帰するところは信仰より現はるるなり。信仰の力すぐれたる人は念の力も亦強し。此事柄より察すれば信仰は念か。念が信仰か。即ち不可分の関係となるなるならん。汝等諸子は石を磨く隙あらば玉を磨くべし。石を磨くは迷信なり。邪心なり。誤信なり。玉を研きて光彩を放たしめよ。迷信には迷信の結果あり。正信には正信の結果あることは、異論の余地なからん。迷ふと云ふは念の力乏しきが故なり。優柔不断なる人は念の力うすきが故に、信仰の力も亦うすし。故に一旦信じたる事は中途にて挫折することなく結果を見る迄、磨きに磨きて念の力を増大するにあらざれば望は達し難し。

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