覚者慈音145  未知日記講義第一二巻  大霊界  信仰の力  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                         NO101
      
   信仰の力            その2
                      教主寛大 講述


 例へば汝病にかかりたる時、医者を招くは其医師によって、己が病苦を治癒することの信あるが故ならん。もしその招きたる医者が信ををくに足らざるものならば、彼よりおくらるる薬石は効果うすし。その理より信仰と云ふことに対して考へを廻らし見よ。信ずる医者の薬はよく利き、信ぜざる医者の薬は利目鈍しここに信ずる力の如何に大切なるかは察する事を得ん。肉体の信仰に於てすら斯くの如き相違あり。まして心魂の空なる信仰に於てをや。信ずると云ふ言葉も空なり。疑ふと云ふも亦空なるべし。ここに至って諸子の信仰は人を信ずる方法を択び居るなり。空なるものを信ぜんがために、実なる人を手本として其によって信を得んとなす信仰者は多し。さればこそ名僧智識の言葉を信じ、野賎の人を疑ふに至る。是等はみな実在より空を信ぜんとなすにて、理によって信ぜんとはなさざるなり。故に稍もすれば誤ちたる信仰に陥るなり。されば信仰は理を求めて其れによって目標を定めずば真の信を得ること難し。
 例へば釈迦キリストの教へならば汝等諸子は信ずることを得れど、慈音の言葉ならば信ををくに足らずとて耳をかさざるべし。是等はみな真の信仰を得ることは至難なり。聖者と雖も誤ちはあるなり。愚者と雖も正しきもあるなり。空なることには斯くも複雑微妙なる関係あるによって、信疑の区は断えやらぬことは、汝等諸子の世界の組織が相対なるが故に、二分さるる結果かくもまぎらはしくなり居れど、その中に含まれ居る一種の真理は、決して曲げらるるものにあらず。真理を信として其によって尺度を伸ばすにあらざれば、真の信仰は得られざるなり。信仰して効果なきは虚信なるが故なり。空信は信ずれば信ずる程その力はすぐれて果(はてし)なく、何処迄も延ばされ行くことは、我等従来語り来りたるが如し。テッシン。セイキョウが汝等衆人に対して感謝の心を育成せよと教へしは是なり。汝等衆人は日々業務をいそしみて生活なし居るは即ち空の力ならん。その空に対して生かされ居る汝等なるが故に、感謝の心を空に捧げよと諭したるなり。即ち生かされ居る肉体は空の力ならば、心も魂も亦空の力によって生かされ居るならん。その生かされ居る喜悦を空に感謝する思ひを、厚くすることによって正しき信仰は得らるるなり。故にテッシン。セイキョウは神を知らずとも可なり。汝等が心に神を作れよと諭し居るなり。
 もし汝等にして我を信ずるならば我の名をよべ。テッシン。セイキョウの名をよべ。又ミキョウ。円海を信ずるならば彼等の名をよべ。何をよぶとも其は空なり。唯汝等は言葉なくしては通ぜずと思ふが故に、便宜上言葉を与へたるにすぎず。釈迦を信ずるものは釈迦をよべ。キリスト又然り。其は唯符号にすぎず。題目を称へ念仏するもみな同様なり。慈音はすべてを観音としてその名をよびて、他の何ものもみな観音として尊び居るにてはあらざるか。彼にとりては弥陀も観音なり。釈迦もキリストも天照大神も、すべて彼にとりては観音として拝みをなし居るのみ。是等に関しては深き理由あるなり。追々語り聞かすべし。迷はず騒がずをちつきて聴くべし。

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