覚者慈音144  大霊界  信仰の力 諸子は己の今日迄学びたる諸子の世界の学問を先づ捨てて、我等の説を信じよ。然することによって汝等が今日迄学びたる学問は、はじめて其威徳を現はすに至らん  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                         NO100
      
   信仰の力            その1
                                                 教主寛大 講述


 信ずる力の強弱によってその程度も従って異なる。汝等諸子は空虚をこもごも信ずるによって迷ふなり。是は智慧の程度の如何による。汝等諸子の世界より我等の説を聞き居るによって、正しき方向に信を向くることあたはざるなり。故に我等は慈音の如き無智無学の人間を択びて、是に実を伝へ、然して諸子を導かんと計りたるなり。されば諸子は己の今日迄学びたる諸子の世界の学問を先づ捨てて、我等の説を信じよ。然することによって汝等が今日迄学びたる学問は、はじめて其威徳を現はすに至らん。一旦棄てて又其学問を応用せよ。是即ち信仰に入る最初の一法なるべし。先づ赤裸々となれ。然して我等が与ふる衣を纏ふべし。然して今迄纏ひ来りたる衣を洗濯せば、美はしき衣となりて清くならん。是第一の信仰に入る一法なれば、よくよく心して考究せば可ならん。先づ是を仮称して脱衣法とも命名なしをくべし。脱ぎたる衣は棄つるべからず。洗濯して清くせば可ならん。我等が与ふる衣は如何に粗略になすとも汚るるものにあらず。汚れざる衣を汝等諸子に与へ居るなり。我等が与ふる衣を肌着として、その上に洗濯なしたる衣を纏はば其にてよし。我等が与ふる肌着は如何なるものにも染まることなく、垢づくこともあらざるが故なり。信仰とは先づかくの如きものにて汚れざる肌着を纏ふことを信仰とみて差支なからん。我かく語らば汝等諸子は肉体の衣を連想するならん。されど肉体の衣にはあらず。魂の衣を云ふなり。魂の衣は光明を放つ。その光明は如何なる方法を以てすとも消滅することもなく六合(りくごう)を照らす。仏教者が云ふ遍照十方世界とは魂の衣の光明を云ふと思ふも可ならん。光明によって道を照らす。即ち信仰の力なり。汝等諸子の世界の学問にて纏ひ居る衣は、明暗の区別あるによって迷ふなり。
 汝等衆人の世界に於て唯日々の行ひの為に種々様々の事柄に囚はれ、彼是と肉体の生活にのみ追はれ居りて、心の安楽を求めんとなすとも及ばざること多からん。されどその生活の為の業務を捨てて迄、心のみの生活を計り居りては、是又肉体の安楽は望まれ難し。ここに於て、修養修行の行ひは困難となる。一方に偏れば一方はおろそかとなりて、行は進まざることは我等もよく知る。故にその行を全からしめんがために、何れにも組せざる法として、拝みをなせよと教へ居るなり。この拝みには何か目標を定めずばあてもなき虚だのみにては何の甲斐もなからん。ここに至って空を信ぜよと教へ居るも所謂法なり。されば信ずると云ふことの大切なるは此理あるによってなり。
 我等の導きは断じて益なきものを信ぜよと云ふにあらず。今迄語り来りたるところはすべて信ををくに足るもののみを教へ居るにて、決してあてもなき虚事をなせよと奨むるものにあらねば、その心して空を信ぜよ。虚頼みなす勿れ。そらだのみは信の力備はらざるが故なり。同じ空を信ずるに於ても信じ難ければ空しき結果となり、信を厚くすれば空の信となるによってなり。

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