覚者慈音1541   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述



覚者慈音1541
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十七    有機の因無機の因
        インショウ、ミキョウ貴尊講述


 中途因果の法則より浅き自然を考ふるが故に世人の未来は暗胆となるなり。即ち一寸先は闇の夜と云ふは、中途因果より浅き自然を考ふるによってなるべし。形あるものは形を変ずるは自然の法則なれど、原因より結果に思ひをはずるならば、種子はもとの種子に帰るは自然の法則なるべし。種子より種子にかへる間の順路は、千差万別にして紆余曲折はあるならんも、其はみな中途自然の法則に従ひて歩みを運ぶに等し。恰も己が家を出でて遠くに旅立つと同様にて、泊りを重ね山河を越え、或は風雨にさらさるる等々の事は、是みな中途自然法則にて結果は目的地に到達することによって使命ははたされたるならん。斯く考え及ぶときこの中途自然、或は中途因果の法則は、何故異なるかを研究せざるべからず。もし宇宙は人間のみのものにて作られたるものならば、その経路の順序は、衆人悉く同一の歩みを続くるならん。されど宇宙は人類のみの為に作られたるにあらず。すべては有形無形を問はずその悉くが、万物の為に作られたるものなれば従って自然の経路には、同一ならざることも推して知ることを得ん。
 斯くも自然は複雑なるが故に、ややもすれば自然をあやまりて、不自然の行動を敢てすることの生ずるは是非もなき事なり。されどそは認識不足にて生じたるにて、正しき自然に従ひ行動するならば、決してあやまちを生ぜしむるものにあらず。現今世人に称へられ居る自由主義は、その多くは中途自然の法則なるが故に、不自然主義を、自然主義の如く曲解なし居る人は少なからずあることを我等は知る。斯る自然に順応して行動するならば、何時迄経ちても世は安らかとはならざるべし。生れたる赤子は母胎を出でて忽ち死ぬこともあらん。是等を自然の法則より観察して是等を自然の法則より観察して世人は如何に解釈するか。世人は唯浅き自然を考へて、是に対して自然はあてにならぬものなりなど称へ居ることを我等は耳にす。是を深き自然より観察すれば、母胎に宿りたる胤、母胎によって組織され、母胎を出でて忽ち死するは是役目を終りたるにすぎず。所謂人より出でて人にかへりて終りたる故なり。世人は是を時間空間より考察するが故に自然の何なるかを知らずして彼是批判なし居るなり。人間と宿りて人間となりて終る。是を惜み悲しむ何故かを考へ見るべし。十ヶ月の間母体を苦しめ、此世に現はれて直ちに死す。せめて一人前の人間に育てあげての後ならばと愚痴をこぼすならん。是等の事柄は他に自然の法則ありての事なるに不拘、赤子に結びつけて両道より考察するが故に、中途因果の考へとなりて、諦めきれぬ悲しみを抱くならん。時間は短くとも赤子は赤子の本分を全うして終りたるは、自然の法則に従ひたる故なり。成長せざりしは母胎の因果関係によるが故に、是を明らめんとするならば、母胎関係の因果の理を更にきはめざるべからず。即ち受胎なしたる時、母胎は生理上何かの欠陥ありしかを先づ原因より考察せば、産みおとしたる赤子の死にしは、母胎不健全の結果なりしと云ふに他ならず。是等は有形の因果法則にて、更にこれを無形の法則に従ひて考察する時は、赤子の肉体完全ならざりしにより、無形の精神は宿らずして遂に終りたりと見なすの他なからん。又是を一層深く追究するならば神界の法則より斯く取りはかられしと云ふ理論もあるなれど、斯ることは現在の学者に語るとも一笑に附せらるるすぎねばここに省略す。とにかく中途自然と、原因自然、結果自然にはかかる道理あり。有形無形を問はず、悉くその自然に順応せざれば、すべてはなりたつものにあらざることを認識なしをくべし。

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