覚者慈音1540   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1540
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十七    有機の因無機の因
        インショウ、ミキョウ貴尊講述

                                                                               2019.11.22


   無形の稔り有形の稔りとは、即ち自然の結果を認識するにあらざれば理解することは得がたし。よって今迄語りたる事柄をよくよく噛みしめて更に未来へ未来へと思ひを運ばしめよ。然らざれば有形の果、無形の果は悟ること困難なるべし。もし汝等にして自然の道理をわきまへあらば、二個の器に盛りたる清水と濁水は飲まざるべし。器に入れたる水は濁れると澄むとに不拘不自然なるによってなり。是等は自然を応用したる中途自然にして本然にかへりたる自然にあらざる故なり。この毒水濁水の理論は次の講に於てくはしく語るべし。
 親は子を生み子は親を生むの関係については前にも述べたる如くなるが、世人の世界には何十代続きて同じ道をふみつつある家柄も見受けらるるなり。又親は学者にして子は不明の人もあり、又親苦労、子楽孫乞食など云ふ家柄もあり、世は千差万別なるに対して世人は是等に対する自然の法則を如何に考ふるや。又祖先より伝りたる事柄が永久不変なりやをも自然の法則をわきまへて是を考究し見よ。世人の住む日本は加味より人代にうつり、然して人代が百二十幾代かに至りて、今や其影稍うすくなりたるにてはあらざるか。学者間には歴史は曖昧にしてとるに足らずとして是を等閑に附し居れど、神代はとにかく、人代は百幾十かの天皇の名称を以て現はしたりとせば歴史の如何はとにかく、ありしと思へばあり又なしと思へばなきが如く、有形かと見れば有形とも見られ、無形かと思へば無形ともなる。人間の理窟は如何にとも変更することを得れど、自然の法則は正しければまぐる事難し。我等の語らんとする自然は曲ぐることをえざる、真の自然を世人に把握せしめんと努力し居ることに留意せよ。
 現在日本の歴史は人代二千六百余年と称し、西暦は千九百余年と称し居れど、其は人間の作りたる人より人へわたりての自然にして、地球の表面に現はれたる世界は悉くみな同年なるべし。是を学理より研究するならばここに又人の心の智慧によって種々様々理窟は生ずるならん。大陸は先に現はれ日本の如き小さき島は後に現出したるものなれば、大陸の歴史は古く小孤島の日本などは新らしきものと云ふならん。是自然をはきちがへ自然をあやまちて考ふるによって、かかる理窟は生ずると思ふならん。されど小孤島と雖も大陸と同様に現はれ来りたる事は地球と云ふものより考ふれば、何れが古く何れが新らしき等々の区別はあらずして、みな一様に組織され居りしことに思ひを致さば、古き新らしき区別は自然より自然へと原因に逆上って考ふれば悉く一に帰す。是を中途自然より考ふるによって古今の区別を見るに至りたることに気附くならば、自然の原因より、自然の結果は判明するならん。自然の原因に立ち帰れば人種の如何を問はずみな悉く同一の法則によって現はれたる自然結果なりと考ふれば、人類悉くみな不可分の兄弟なることも、推して推測することを得ん。是瓜の蔓に茄子をならせたると同様の関係は、自然の法則によってなりとの理も推して知ることを得るならん。この事柄よりすべて宇宙に存在するもの悉くが一より生じたりとせば、億兆に至る迄その悉くがみな他にあらずして自らなりとの理も知るを得れば、犬も朋輩鷹も朋輩の関係ありて、自他の区別、彼我の区別も判明せざるべし。瓜の蔓になりたる茄子を喰ひて、自らの肉体の養ひとなるならば、茄子と我とは是又不可分の間柄となる。斯くして相助け相助けられ居ることにおもひをはするならば、すべてに対して思ひ遣りの心もて、是等を育て育てられるにあらざれば、世は保たざるべし。話はいささか横道に入りたる感あり。もとに復すべし。

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