覚者慈音1535   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1535
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十六    有機の因無機の因
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.11.19


 無始終霊子は即ち空源体性を作り出したるものなれば、是によって考ふる時、霊子は唯はたらきをなす一種の要素なりと思はば、すべての道理の根底は先づ是より作り出ださるると理解するの他なかるべし。世人の用い居る原子電子微分子等々も根に返せば、霊子となることも頷かるるならん。原子電子気子光子等は既に形を現はしたるが故に、是は破壊もし又組織もさるる道理あらんも、霊子は如何なる法を用い如何なる術を以てすとも破壊することも難く、又破壊せらるるものならば、始終の定めなき全宇宙は成立するものにあらざることも知ると同時に、全宇宙の始終なきことの理は推して推知することを得るならん。この霊子は何千極倍の顕微鏡を以てすとも見ることは難し。斯る小さき霊子が全宇宙を作り出したりとせば、そのはたらきの大なることは想像すとも人智にては、到底是が理をきはむることは難からん。貴尊方が全宇宙は秒時も休まず動じ居ると仰せられしことに思ひをはせよ。動にして静にあらず。静にして動にあらざる理も是によって察することを得るならん。又有無の関係もこれによって悟ることを得るならん。此理より考ふる時、言葉も亦有形の物質となると説かるるも、その理はうなずき知ることを知るならん。言葉は一種の有形の品物と見なすことを得ば、是を巧みに選り分けて良き品物を我ものとなし、悪きものを捨ることも亦容易なるべし。兎角世人は人間同志の間に用い居る言葉を、人間本位に聞くが故に、迷ひ迷はさるれど、言葉を品物として選択するならばそれは人間本位にあらずして、智慧本位なるによって、たとえその語りたる人間の如何に不拘智慧によって言葉をわがものとし、又棄るものは自在に捨るが故に人と人との衝突も起らざる道理あらん。世人はかの人は正しき人なるが故に、彼の人の言葉は正しと思ひて修養なしたる時、もし其人が不正の行為をなして身をあやまちたりとせんか、其時正しと思ひし人の不善なりしことによって、今迄教へられし言葉を皆嘘偽なりとして、捨つる如きは実に愚なることなり。斯る事にて修養なし居らば空しき修養のみ積み居りて、己が向上発達はなり得るものにあらず。己が智慧をはたらかせて言葉は品物なりとしてよきものを己が資料に、己が財産として貯るならば、此人こそ智慧によって福徳を得たる結果となる。是即ち因を正しく育てたるが故と承知すべし。
 迷ふことあらば中途因果の考へを今一層深く掘り下げて、先づ無始終霊子迄立ち返り、其により新らしき線を追ふて考慮を廻らせば訳もなく、凡ての事柄を解決する道は開らかるるなり。恰も毬を地上になげつくると同様の関係と知らば可ならん。我手許より上方に
抛げ上ぐるよりは寧ろ地に叩きつけて却てそのまりは高き処にはね上ると同様なるが故なり。

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