覚者慈音1522   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1522
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十三    空間に種子を蒔く法とは如何
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.26


 さればその任務とは何かと是又迷ひを生ずるならん。汝もし神を知るならば否神の心を知るならば此世を如何に思ふや。もし罪人多く世にはびこらば是を亡ぼして絶滅せしめんと考ふるか。もし神の心に合ふ思ひにて是を見ば哀を催して、如何にかして是をよき方向に向はしめんと努力する慈悲心は、自づと湧き出づるならんとは考へざるか。人の心はさにあらず。悪きものを絶滅して、凡てを良きものになさんと計るは、是神の心には合はずとは考へざるか。神と人との心には斯くも相違ありとは思はざるか。深山幽谷に分け入りて周囲の様を観望する時、美きあり、汚れたるあり。されどその汚れたるものあるによって、美きものは眼に感ず。然して汚れたるものの多くして美きものの尠きを見ること多し。されどその汚れたるものを悉く排除して、美きものに改めなば、醜美の区別は計り難からん。人里離れたる深山幽谷に於てすらかくの如し。まして汚れたる人里に於てをや。悪きものの多きは当然なるべし。是又自然の姿なりとは考へざるか。汚れたるものを汚れたりとして、美きものを美はしとしてそのままに置くは是自然の法則と考ふるならば、其処に何か意味深きものの存し居ることに心づかざるべからず。もし人間が一切悉く美きものにならんと欲するならば、汚れたるものなくんば清きは測り難からん。誰しも汚れたるものにならんとは思はざるべし。汚れたるものに置れたるものに対して情の心は起らざるか。
 床柱は清く不浄場の柱はきたなしと思ふならば、もし是を人間と考へて験し見よ。誰か厠の柱にならんと望むものはなかるべし。然る時は床柱のみ多くなりて厠の柱はなきに至らば家は建つものにてはあらざるべし。世人は自然をはき違ひなし居ることは、斯くも些細なることによって考ふるも明らかなる如くなるに不拘、世の中はみな己の分野を忘れて凡てが床柱にならんと望むが故に、世は治まらず永久争闘の断間なきは是自然の法則を知らざるが故にして、所謂空間に種子を蒔かず、大地に思ひを致し居ると同様なりと考へて、自然とは何か、自由とは何かをよくよく考へて実行にうつさば世は正しく治らんと我等は考ふるものなり。些か枝葉にわたりたる感あり。もとに復すべし。

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