覚者慈音1523   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1523
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十三    空間に種子を蒔く法とは如何
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.27


 今慈音は我に向かひて曰く、「貴尊の仰せは我等にとりてのみこみ難きこと多し。余りに論理に走りて我等の修行は如何になすべきやに思ひ迷ふことのみにて、心は宙に迷ふ。今少し是を具体的に説明せられたし」とのことなるが、行とは何か、即ち修養の他、道はなかるべし。修養によって精神を洗ひきよむるは即ち行ならずや。具体的に語れよと云ふことは何か。日々の行ひに関して特殊の方法にてもあるやに曲解なし居るが為に、道をあやまり横道にのみ走り居るにてはあらざるか。何日か、汝は欣情と語りし如く、「この世の中は余りに醜くければ早く遁世して山河に於て行じたし」と語りしことを今も念頭に存し居るならん。遁世して深山幽谷にわけ入り、然して何をか求むる。山に入らば彼方此方とかけ廻りて食物を求め、或は薪を拾ひなどなすのみにて、所謂肉体のことにのみ心を配る他なかるべし。然してその間に処して行ずるとは何を行ずるかを考へよ。汝も欣情も世を厭ひて避くるならば、里に在りて其身其儘を遁世しなば山に入らずとも里にて行はなし得らるる道理を考へざるか。里に居らば身のまわりは他の力にてなされありて山河の如くかけめぐるの用は省かるることを考へ見よ。然りとせば里に居らば却て行は進む道理なるに不拘、其行とは何かを知らざるとは余りに身勝手我儘の心掛にてはあらざるか。他によって身のまわりは整へらるるならば、専心行にいそしむ筈なるに不拘、行とは何かについて考慮せず、唯空しき光陰を過し居るにてはあらざるか。我等の汝に語り居るはこの行をなさしめんが為の教へにてこの論説をそのままに受け入れて己が心の修養の糧とせば、従って行の法は明らかに認知する筈なるに、この他に尚も別個の方法ある如く思ひ居りて、徒らに頭脳をなやまするは愚とや云はん。軽率とや云はん。
 我、世に在りし頃深山幽谷に在りて何をなし居たるかと云ふに、唯師より命ぜらるるがままに行動し、その余は唯一心に拝みをなし居たるにすぎず。拝みとは何か、もとより肉体の苦患は、肉体を整へんが為の荒行にて肉体を愛するが故に、風雨にも堪え得る力を養ひ居たるにすぎず。然して拝みとはこれ精神を整ふるにて、他に所謂一大事とは心霊を一体になして天の広大無辺なる威徳にまかせんとなす他、何等目的はあらざるなり。換言すれば行とは神を知るにあることは云ふ迄もなからん。

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