覚者慈音1516   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1516
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十二    肉体をはなれて霊に従へ
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.24


 先にも語りし如く一、0を0、一に化せしめ、然してその一を除去して更に0、0の境涯に迄運ぶにあらざれば、肉体を離るることは難きことも世人は既に承知なし居るならん。世人の考へは肉体をはなれんとして、却て肉体に執着なし居るによって望みは達し難し。執着心の強きも是接続根のはたらきに他ならず。所謂自我心は肉体にはたらきて、然して肉体を育つるによってその力は次第に肉体にのみ囚はれ行きて、霊を離るる結果となるは当然なるべし。是を精神に囚はるれば、肉体は放棄するの止むなきに至ることも亦当然とは考へざるか。接続根によって根にも養分を含ませ、然して又一方其根より吸収したるものを茎に送りて是を育つるも、接続根のはたらきによらざれば樹木は完全に発育せざる道理あらん。是を思ひ彼を考ふる時、ここに何か一体化せしむる方法は案出することを得る理を発見するならん。即ち肉体を根と考へ、心を茎と思ひて工夫するならば、根と茎は不可分の間柄なるが故に等分になさざれば、発育不良となるは是又当然なるべし。故に根と茎は不可分関係ありて、是を分離することは至難なるべし。肉体と精神を如何に分離せんと計るとも、所謂根と茎との関係なれば、是を分離せしめなば枯死するの他、道はなかるべし。肉体を離れて心を育てよと云ふに対し、世人は肉体を忘れて、心にのみ思ひを致すによって修養力は乏しくなるなり。根を完全になさざれば茎はのびず。故に肉体は大切なるべし。肉体を放棄せんと計るによって精神力は従って柔弱となる。精神薄弱とならば、迷ひのみ多くして信ずる力は乏しくなるは、是又道理なるべし。肉体に送る養分は正しく清らかなるものを用い、その清浄なる養分を茎に運ぶにあらざれば、信仰の力は強くはならざることも推して知らるるならん。根は土中にありてすべての汚れたるものに沁み居るによって、肉体は常に汚され居ることに心して、その汚れの中にも清浄なるもののあることを知らば、汚れを排除し清きを貯へて茎に運ぶことを工夫し居らば、従って霊と肉体の関係は正しく養はるるとの意味も亦知ることを得ん。然るに世人は此事に心附かず、肉体に汚れたるものを多く吸収して肉体を肥らせ健康を計るによって、茎にも亦多くの汚れたるものは運ばれて、精神は傷けられ居る事の多きを知るならん。美味美食を恣にして肉体のみ健全ならしめんと計らば、却て養分をとりすぐる結果、病気を併発して心をも苦しむるに至るも、是汚れたるもののわざわひによると知らば食事に対しても亦心せざるべからず。

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