覚者慈音1517   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1517
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十二    肉体をはなれて霊に従へ
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.25


 ここに聊か枝葉にわたることなれど語りをく必要あるによってしるすべし。そは他ならず。世人は生花と称して木の枝をつみとり是を器にさして楽み居るを見る。此事に対して世人は如何に考ふるや。生花と称するならば枝をつみ取らばそは殺したるにて、そは殺したるものを更に他に移して生かさんとする意味の活花か、或は唯水を吸はせて長く生かさんとの考へより行ふかの二なるべし。よく聞くところなるが世人は庭園の花は見事に咲きたり。是を神仏に乗らせんとてつみとりて花瓶にさしてそなへ居るは何故の供物ぞ。我等には合点なし難き行ひなり。所謂神仏に捧ぐるにあらずして、己自らがその花を花瓶にさして娯しまんとする心にてはあらざるかとの、疑ひを抱くより他なかるべし。もし是を人間として考へみよ。彼の人は心美はしき人なり。されど姿は醜くし、よつて心だけつみとりて他に移し娯しまんと計るならば、何を摘みとりて我家に持ち帰るか。我の語らんとする処はここにあるなり。人間の美はしき心を花になぞらへて考へ見よ。然る時はここに何等かの深き意味の含まれあることに心附くならば、人生の神に対する行ひの道は自づと察するを得ん。花を作るには其花を開らかしむる種子を地に下して、其が次第に空間へ空間へと上昇して果は望の花は空間に咲き誇りて使命をはたす。是即ち花としての結果に他ならず。世人は地上に種子を下す如く、人間も亦地上に下されあることに心附かば、そののび行く処は即ち空間へ々々々と運ばれ居ることに気附くならば、種子を地上に下すはその地上を足場として空間へ種子を蒔くと同様のことなりと考えへて、空間へのび行くは種子を空間にて育てんとするに等しと考へて、是を深く考案工夫し見ば結果は、即ち空間に重点ををきたると見なして可ならん。世人は空間に重点をおかず大地にのみ囚はれあるにてはあらざるか。然りとせば現実の世界より未来の空間は大切なることに心づかば道は従って明らかとならん。種子を蒔くは大地にて花を開らかすは空間とせば大地は足場にて、望は空間にあることに思ひを致さざるべからず。世人は花を作りて是を摘みとり花瓶にさすは即ち目的の花を必要とするがためならん。然りとせば神は人をつくりて、その人の心の中に美はしきものを必要とする理も此花の意味より推察せば、神の望は人の肉体にあらずして開らきたる美はしき心の花を望まるるにてはあらざるかとの理も、亦察することを得るならんとは考へざるか。世人は今年より来年は良き花を作らんと様々苦心なして去年より今年へ、今年より来年へと進化の道を工夫する如く、神も亦前世より今生へ、今生より来世へと人種を進化せしめつつあることも推して知ることを得ん。斯ることは唯然あるかととのみの考へにて空しく放棄すること勿れ、米を作るにも品種を択び又是に対する肥料も様々工夫なすは人間が米に対する思ひ遣りにて、その思ひやりの意味は即ち己が心の慾望のみにあらず、人類一般によきものを得せしめんとの慈悲心より考案工夫して努力なす如く、神も亦神界を清浄化せんとの望より計り居るやもはかられずと我等は考ふるが、世人は如何に思ふや。我等の小さき且つ狭き心にては神の意志は那辺にあるやは知らねど、兎に角我等の浅き智慧にては斯くあらんかと思ふなり。我等の使命はとにかく人類の向上を計れよとの命令に従ひ居るにて、神の意志の存するところを知るよしはなし。依って唯命ぜらるるままに行動なし居るにすぎずと考へられよ。

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