覚者慈音1515   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1515
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第四十一    自我心の清除法について
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.24


 太陽は八方十方に輝き居れど地球全体は一時に照らすことはなさざるべし。地球全体をくまなく照らすものはあらざるかを考へ見よ。なしと思ふや。ありと思ふや。地球全体を照らすものは即ち大気空気なるべし。大気空気は分秒も異なることなく平均して至らざるところなく照し居ることに世人は無関心ならん。然るにその尊き大気空気に感謝の拝みをなさずして、或ものは太陽に対して拝みをなす。是即ち有形の光を拝むによって是は外を拝し居るなり。世人にしてもし空気を大気を拝するならば、それは無形の拝みなるが故に内観の拝みとなる。内観法とは即ち大気空気に対して拝みをなす方法なりと知らば、太陽を拝する心を空気ににも応用して太陽即空気空気即太陽の拝みをなさば、是にて内外観一体化はなし得たることを悟らざるべからず。人には何か特有性のものを(言語にては現はし難し)具備し居るにて其は即ち拝みする心を育て、又信ずる養ひともなり居るものを有す。是あるが故に自我心は大切にて、その特有性のもののはたらかせかたの如何によつては、或は煩悩の炎ともなり、又貪欲の水ともなる。故にこの特有性のものをはたらかせて自我心を洗ふにあらざれば炎も消滅せず、又水も清浄とはならざるなり。故にここに重点をおき拝みする行を怠らば、目的は達しがたく、望みは叶い難きことを考慮して自我心を洗ふものは即ち拝みなりとの結論をよくよく考へのうちに貯へてすべてに対して拝みせよ。然してその拝む心を養はば是は人間を育つる大切なる養分となりて、遂には零コンマ零の三我一体となることは火を賭るよりも尚明らかなりと知るべし。
 幼児の時代に於てもものを破壊すると又組織するとの心を有し居ることを、又世人も知るならん。幼児のものを組織するは愛なり。破壊するは憎悪の観念より現はるると見ば、幼児時代よりすでに此拝みの心は現はれ居ることを知るならん。幼児は唯訳もなく思慮もなく、現はるるがままに行動なし居るにて、別段理論より事をなすにあらず。されば是等の理をよくよく脳裡に思ひ浮べて、誰にも慈悲心は自然に備り居る事に留意せば拝みとは何か、即ち人間の持つ本能とは、即ち拝みの心の働かせかたに匹敵すと考ふるも差支なからん。人の性は善なりと云ふも、即ち善とは清浄無垢を云ふなり。清らかなるが故に慈愛の心は養はる。是即ち善なり。是を育つる方法のあしければ其は汚れを重ねて悪となる。拝みの法とは即ち善心に立ちかへらんとする拝みをなさざれば結果は善とはならざるべし。善因善果悪因悪果の理はここに存す。我、多くは語らじ。世人は実験によって体得せんことを !

×

非ログインユーザーとして返信する